信長の娘を娶った蒲生氏郷と日野

連載・京都宗教散歩(31)
ジャーナリスト 竹谷文男

信長・信忠親子(右の2つ)、森蘭丸3兄弟(左の3つ)の墓=京都市上京区の阿弥陀寺

 

 織田信長は天正10年6月2日(1582年6月21日)、明智光秀の奇襲を受けて本能寺で自害、『敦盛』の一節「下天の内をくらぶれば ゆめまぼろしの如く」に生涯を閉じた。京都市上京区の阿弥陀寺には信長と嫡男信忠、近習の森蘭丸、坊丸、力丸の三兄弟、家来たちの墓が並ぶ。阿弥陀寺は毎年6月2日、信長忌の法要を営んでいる。
 変の時、阿弥陀寺にいた清玉(せいぎょく)上人が信長の遺骨を収めたことは、『阿弥陀寺由緒略記』(以下『略記』)に描かれている。
 『略記』によると、光秀が本能寺を攻めたことを聞いた清玉上人はすぐに僧徒20人らと駆けつけたが、表門は厳重に兵士に守られていた。そこで裏道から入ったところ、堂宇は燃えていて、信長はすでに割腹した後で、竹林には10人ほどの織田方の武士が火を焚き、「遺骸は敵に渡すな」との遺言を守り火葬しようとしていた。同上人が武士たちに「敵に向かって行けば、その間に信長公の遺骸を持ち出して供養してあげよう」と言うと、武士たちは喜んで敵に向かった。清玉上人らはその間に信長の遺骸を法衣に包み、本願寺の僧たちに紛れて脱出し、阿弥陀寺に戻って遺骸を土中に埋めて隠した。
 また信長の嫡男信忠は二条城で討ち死にしたが、清玉上人らは檀家の者らを供養すると称して同日午後、遺骸を探して同じように阿弥陀寺に隠した。清玉上人は阿弥陀寺で後日、信長、信忠や近習の森蘭丸ら戦死者の供養を営んだが、これは秀吉が大徳寺で大々的に信長の法事を営むよりも前のことだった。
 この時、信長の居城滋賀の安土城には正妻の濃姫らがいて、信長の死はその日の午後に知らされた。安土城の守りを信長から任されていたのは蒲生賢秀(かたひで)、滋賀の日野地方の武将で、嫡男氏郷(うじさと)に救援を命じた。氏郷はこの時27歳、安土城から数里南東にあった日野城に妻の冬姫と共にいた。冬姫は信長の次女で、戦国時代一の美女である信長の妹お市とうり二つと言われていた。氏郷は、信長の元で人質として過ごしていたが、信長に見込まれて冬姫の婿となっていた。

綿向神社例祭の山車に乗る蒲生氏郷の人形=滋賀県蒲生郡

氏郷はすぐさま輿(こし)や馬を準備して、父賢秀と濃姫たちを安土城に迎えに行き、翌3日には日野城に無事避難させ戻ってきた。日野城の周囲は明智側に付き、蒲生親子は孤立無援となったが、氏郷は義父信長を討った明智側に付くはずもなかった。そして13日、光秀は山崎の戦いで秀吉に敗れた。
 この氏郷の機敏な動き、武将としての器量、領地日野の治政などが秀吉に認められ、氏郷は天正11年(1589)、伊勢松が嶋12万石に転封となった。そして、松が嶋を松坂と改名して発展させた。秀吉の小田原攻めの後、氏郷はさらに会津70万石に転封となり、後の検地によって会津の石高は90万石を越えた。氏郷はこうして、秀吉の家臣の中で徳川家康、毛利元就に次ぐ3番目の大大名となった。
 このように順風満帆に見えた氏郷だったが、寒冷な会津の風土になじめないことなどから健康を害し、文禄4年(1594)年、伏見の蒲生邸で惜しまれながら40歳で病没した。
 蒲生家の氏神は滋賀県蒲生郡日野町の馬見綿向(うまみわたむき)神社で、同社は今も湖東随一の例祭日野祭を催し、曳かれる山車の一つには氏郷の人形が乗り、「蒲生氏郷公」と大書されている。
 綿向神社は、日野町の東にそびえる綿向山の山頂に祀られている大嵩神社の里宮で、式内社の馬見岡神社に比定される古社である。祭神は、綿向山を神体山とし、出雲系の三柱である天穂日命(アメノホヒノミコト)と天夷鳥命(アメノヒナドリノミコト)、武三熊大人命(タケミクマオウシノミコト)。同社は、神武天皇の時代に出雲の開拓神を迎えて祀り、欽明天皇6年(545)に綿向山の頂上に祠を建て、平安時代初めに現在の地に移された。
 中世後期には日野に城下町を築いた蒲生氏が氏神として庇護し、氏郷は天正12年(1584)に伊勢、その後会津に移るが、寄進を続けた。神社の参道一帯にあった「若松の森」と呼ばれた松林を偲び、氏郷は新たな領地を「会津若松」と改名している。
 近世には近江の日野商人(近江商人)が出世開運の神として崇敬し、日野祭を彩る曳山19基(現存は16基)は、18世紀初頭から日野町人の財力によって造られたものである。
 また、蒲生家の菩提寺である日野町の浄土宗信楽院(しんぎょういん)には氏郷の墓があり、遺髪が収められている。同院は奈良時代前半に聖武天皇の勅令により建立され、一時衰退していたが、江戸期に再興された。氏郷が初陣に着用した甲冑などが残されており、蒲生氏が発展させた会津若松や松阪から訪れる人もいる。
(2024年6月10日付 812号)