空海とスピノザ─神仏即自然
2022年9月10日付 791号
空海における神仏習合を考えていて、ふと汎神論で知られるスピノザの思想と共鳴するのに気付いた。17世紀、オランダ・アムステルダムのユダヤ人居住区に生まれたスピノザは、生前に出した『神学・政治論』が無神論の著とされ、ユダヤ教会とカトリック教会からも破門されたが、44歳での没後にまとめられた『エチカ』が西洋哲学史上最高の著と評価されている。
スピノザが『エチカ』で説いたのは、隷属から自由へ、自由から幸福へ至る道。無限の神は宇宙そのものであり、人間をはじめすべての存在は神の中にあるとする。それゆえ、有限の人間に無限を希求する本性が宿っているのだろう。神の現れとして能動的に生きるとき、人は自由を感じ、それが幸福に至る道となる。
即身成仏
松長有慶師は近著『空海』(岩波新書)で、空海の思想を「瑜伽に始まり瑜伽に終わる。つまり空海の現世が、無限性と常につながりをもつ」と端的に説明している。瑜伽とはインド古来の瞑想、座禅、禅定のことで、晩年の空海は高野山の自然の中でそうしながら、死を迎えたことから、「今も生きて衆生の救いのために働いていてくださる」という大師信仰を生んだ。四国遍路もその表現の一つである。
空海という名前自体が、無限へのあこがれを示している。有限の私が、どうして無限を認識できるのか。それは私が無限の自然から生まれたからで、真言密教の阿字観によりそれを実感でき、真言密教では、それを「阿字のふるさとに還る」と美しく表現する。サンスクリット語では、言葉の最初の一字「a」が全体の意味を象徴的に具えていると見るところから、「阿」の一字をひたすら想念すれば、無限世界につながるという。
密教という仏教の最終ランナーが目指したのがその世界であり、インド古来のヒンズー教の神々も取り込んだことから、神仏習合はすでにインドで始まり、中国では道教や儒教と習合し、日本に渡来して神道と出会う。その密教の教義を初めて体系化し、かつ実践したのが空海である。即身成仏の思想はインドの仏教にも見られるが、それが実現したのは日本においてだった。インドや中国、朝鮮では迫害のため失われた密教の教義と生き方が、日本では高野山を中心に、今も守られ、研鑽されている。
空海の誓願は永遠に続く衆生救済の活動で、自身の内面を探究しながら、ひたすら衆生救済にいそしむ生涯だった。四国遍路を体験した外国人が、その印象として挙げた言葉で一番多いのが「ライフ(人生、生き方)」だった。つまり、倫理(エチカ)である。ひたすら歩くことで、人々は自然と一つになり、そこから生き方を見直していく。
永続的な衆生済度は親鸞の還相廻向に似ており、資本主義の倫理を生んだとされるカルビンの二重予定説に通じる。浄土で救われた身で現世に戻り、人々に尽くすというのは、救いが予定された身であることをあかすため、勤勉に働くのと符合している。いずれも人間の感情レベルの話で、空海もスピノザも感情や欲望を重視した。
倫理の基本である善悪について、スピノザは組み合わせだとする。例えば、高カロリーの食品はアスリートには善だが、普通の人には肥満の原因となる。しかも、善悪は好き嫌いで判断できるという。これは、善の中にも悪があり、悪の中にも善があるとする仏教の善悪観に通じる。善を行えば心が喜ぶのは東西同じである。
スピノザ研究の第一人者である國分功一郎東京工業大学教授は、「ありえたかもしれない、もうひとつの近代」をスピノザの思想に発見し、デカルトの二元論の限界状況を露呈している現代社会に対し、少し見直してみよう、と提案している。
無限の感謝
空海とスピノザに共通しているのは、自然への限りない感謝で、それは日本人の原恩主義に通じる。その気持ち、感情が根底にあるので、善いことの実践に意欲がわく。そうした生き方が、私たちに自由をもたらすのである。歩き遍路の人たちも、同じ気持ちを味わったのだろう。
空海の即身成仏を、庶民にも分かりやすい阿弥陀如来への信仰、念仏で到達しようとしたのが法然や親鸞だとすれば、神仏即自然の思想が日本で底辺の人たちにも浸透していった経緯が理解できよう。そんな日本人の信仰の歴史を見直したい。