新羅の護国仏教と東大寺

2018年11月10日付 745号

 奈良国立博物館で十月二十七日から十一月十二日まで開かれている第七十回正倉院展に出かけたのは、新羅琴が出品されるという新聞記事を読んだから。昔、公演を手伝った韓国少女舞踊団のカヤグム(伽耶琴)の音色を思い出した。後に知遇を得た民族音楽学者の岸辺茂雄東大名誉教授から、韓国人が音感に優れている理由の一つがカヤグムなど弦楽器にあるとの話を伺ったのも懐かしい。
 韓国人の仏教学者よりも多くの韓国の寺を巡ったという鎌田茂雄東大名誉教授からは、インドと中国、朝鮮の仏教を並列に研究しないと日本仏教は分からないと言われた。久しぶりに同氏の『華厳の思想』と田村圓澄の『古代朝鮮と日本仏教』(いずれも講談社学術文庫)を携え、奈良に向かった。
第70回正倉院展
 正倉院展では期待の新羅琴のほか、新羅製の仏具や毛氈なども展示されていて、当時の奈良仏教、とりわけ華厳宗の東大寺が新羅仏教から大きな影響を受けていたことを実感した。日本に仏教をもたらしたのは百済の聖明王で、それが五三八年の仏教公伝である。もっとも、それ以前から仏教信仰を持つ朝鮮半島の人たちが多数渡来していたと考えるのが自然だろう。
 高句麗、百済、新羅の三国時代の新羅は弱小国で、百済に近い日本は新羅と敵対していた。その外交を徐々に変更したのが聖徳太子で、さらに百済が滅び、新羅が朝鮮半島を統一すると、新羅との交流は盛んになった。時代は少し下がるが、円仁の『入唐求法巡礼行記』には、新羅の人たちの助けで旅をしたことが記されている。
 新羅は唐と結んで六六〇年に百済を滅ぼし、六六三年には大和政権の水軍を白村江の戦いで破り、六六八年には高句麗を滅ぼして半島を統一し、さらに六七六年には唐との戦いに勝ち、その影響から脱する。新羅がそれほど強くなった大きな要因が、花郎(ファラン)と呼ばれる、十世紀まで続いた若者の軍事的、文化的教育組織の存在で、彼らの精神的支柱となったのが弥勒信仰だった。仏教におけるメシア思想である。
 当初、日本が受容した仏教は蘇我氏が氏寺を建てたように、氏族を守る宗教であった。ところが、そこに将来の国民を形成する優れた思想を見いだしたのが聖徳太子で、それゆえ優れた若者たちを中国に留学させ、仏教を学ばせた。
 天智・天武天皇から聖武天皇のころまでは古代国家形成の時代で、仏教も氏族仏教から国家仏教に転換する必要があった。そこに新羅で護国仏教が栄えていたのは、日本にとって大きな幸運と言えよう。その新羅仏教受容の拠点となったのが、総国分寺として建立された東大寺である。
 大阪府柏原市には、聖武天皇に大仏造立を決意させた毘盧遮那仏のあった知識寺の東塔の心礎が、石(いわ)神社の境内に置かれている。一帯は百済系渡来人が住んでいた地域だが、なぜか知識寺は双塔式の新羅様式であった。
 二〇一六年に、日韓国交正常化五十周年を記念し、特別展「ほほえみの御仏―二つの半跏思惟像―」が東京国立博物館で開かれた。会場には、奈良・中宮寺の国宝半跏思惟像 と韓国国立中央博物館にある韓国国宝七十八号の半跏思惟像(三国時代・六世紀)が対面していた。
 田村氏によると、半跏思惟像は悉達太子(しったたいし)、つまり出家前の若き釈迦が人生の問題に苦悶している姿を表したものであり、弥勒は第二の釈迦で、新羅では花郎の中心の金庾信(きんゆしん)が弥勒の生まれ変わりだと信じられたという。日本では、悉達太子に聖徳太子が重なり、太子信仰が生まれる。新羅仏教は日本の古代国家形成に深くかかわっているのである。
日本は貴重な国
 中国、韓国・朝鮮、日本を並列に見ると、中国や朝鮮半島では失われた仏教の経典や仏像、仏具、寺院などが日本には残されている。学問的な意味でも、中国・朝鮮にとって日本は貴重な国であり、交流が深まればそうした認識も広まるであろう。現実の危機には対応しながら、歴史的な観点から東アジアを見るゆとりを持ちたいと思う。