岡山の春を彩る宗忠神社御神幸

絢爛華麗な時代絵巻の行列/岡山市

桜を背景に後楽園へと進む御神幸の行列
桜を背景に後楽園へと進む御神幸の行列

 岡山市北区上中野(通称・大元)にある宗忠神社の御神幸(ごしんこう)が四月一日の日曜日、桜が満開の岡山市で古式ゆかしく行われた。平安貴族風の装束をまとった信者・崇敬者ら約千人が、宗忠神社から後楽園に設けられた御旅所までの往復約十二キロを優雅に練り歩く。侍姿の子どもたちの鼓笛隊には、「かわいい!」との声援も贈られるなど、沿道を埋めた市民や観光客から大きな拍手を受けていた。
 午前八時、御神体の宗忠大神(黒住教の教祖・黒住宗忠)を遷した御鳳輦(ごほうれん)を中心に行列が神社を出発。行列は、笛や太鼓、吉備楽の音を響かせながら、表町商店街やJR岡山駅前などを通る往復約一二キロを古式ゆかしく進んだ。高校生のブラスバンドや子どもみこしも加わり、祭りに花を添えていた。
 午前十一時半ごろ、行列は後楽園に到着。御旅所が設けられた後楽園では、鶴鳴館前で黒住教の黒住宗晴教主が世界平和を願う祝詞を奏上すると、好天に恵まれ、同園を訪れていた多くの花見客や外国人観光客らも儀式を興味深そうに見ていた。
 行列は午後一時過ぎに後楽園の御旅所を出発し、岡山駅を経て、午後三時に神社に還りついた。
 御神幸の始まりは、宗忠神社が鎮座した翌年の明治十九年(一八八六)に、御祭神が在世中に奉仕していた今村宮(池田藩の守護神社)への鎮座報告にあわせて、神恩に感謝するとともに、世界の大和と万民和楽を祈って御神霊を遷した御鳳輦の渡御を行ったことで、今年百三十二年目を迎えた。
 その後、この行列の市中巡幸を熱望する市民の声が高まり、明治二十四年(一八九一)から名園・後楽園を御旅所とする岡山市民の祭りとなった。
 黒住教は、岡山県岡山市今村宮の神官、黒住宗忠が江戸時代の文化十一年(一八一四)に開いた教派神道で、神道十三派の一つ。流行り病で父母を亡くした悲しみから病に伏した宗忠は文化十一年十一月十一日の冬至の出を拝む(日拝)中、天照大神と自分が一体となる体験をした。黒住教ではこれを「天命直授」と呼び、この日が立教の日。 以後、宗忠は病気治しや日常の心がけを説く宗教活動を始めた。
 文久二年に京都の神楽岡に創建された宗忠神社は慶応元年(一八六五)、孝明天皇によって勅願所となり、従四位下の神階を宣下された。明治政府が寺社等の国家管理を進める中、黒住教は宗教としての伝統を守ろうと明治九年(一八七六)、他の教団に先駆けて神道事務局から神道黒住派として独立した。
 当時、二十代だった黒住宗篤第三代教主は、政府から「御訓誡七カ条」など宗忠の教えを説いてはいけないと命ぜられたとき、独自の信仰を守り、宗教として生きる道を選んだのである。
 毎日、朝日を拝む「日拝」など黒住教は日本人の習俗に基づく宗教と言え、一神社の祭りが市民の祭りとして定着したのも、そうした歴史によるものであろう。
(2020年4月5日付734号)