他宗に学ぶことの意味

2021年10月10日付 780号

 『八宗綱要 仏教を真によく知るための本』(凝然大徳/鎌田茂雄全訳注、講談社学術文庫)の冒頭、鎌田教授は次のように書いている。
 「仏教は人間学ではあるが、人間をどのように見るか、ということは仏教の宗派のなかでもその見方は異なる。たとえば『維摩経』では、人間は空無な存在であり、空無の中に生きつづけるのが人間であると見る。三論宗や禅宗でも人間をこのようにみる。しかし一面、人間は罪業を背負った存在であり、自分の力では永久に救うことができないともみられる。浄土への往生を希願したり、煩悩汚辱の存在であることを自覚すれば、浄土教や真宗のような人間観も生れるはずである」

よりよく生きるため
 鎌田教授の核心は観音信仰にあったが、禅宗から浄土宗までまさに凝然のように修学し、当時、あまり注目されていなかった韓国の寺院を、辺鄙な山奥まで韓国の仏教学者以上に訪ね歩いていた。
 よく言われたのは、インド、中国、韓国の仏教と並列的に比較しないと、日本仏教の意味は分からない、ということ。源流は同じだが、それぞれの風土や文化、思想を吸収し、変容してきたからだ。
 前掲書では次のようにも述べている。
 「仏教用語は人生の生き方と無縁なものであってはならない。たんに観念的に述語を羅列したのが仏教の教義ではないのである。たんなる形而上学や観念論ではなく、苦悩を背負いながら生きてゆく人生の真相に裏打ちされたものでなければならない」
 これはほかの宗教についても同じで、思想にかかわる学びは自身の生き方と連動していなければ意味がない。
 今年3月から5月にかけて、京都国立博物館で特別展「凝然国師没後七百年 鑑真和上と戒律の歩み」が開かれた。戒は自らの内面の戒め、律は共同体のルールで、仏教は戒律を守る集団により生き続け、広まってきた。奈良時代、聖武天皇が鑑真和上を招聘したのは、日本仏教を国際標準に近づけるためであり、仏教立国を概成し、それによって天然痘を収束させたいとの願いもあった。
 同展を見て再認識したのは、戒律とは仏教の原点回帰、信仰復興運動であり、その成果は内面の刷新から社会活動にも及んだことである。鎌倉時代に、新仏教の興隆に刺激され、旧仏教を復興させた僧たちの一人が凝然であり、その歴史はキリスト教における宗教改革とカトリックの復興に似ている。
 その流れは、江戸時代に『十善法語』を著し、大坂商人らから「片手に算盤、片手に十善法語」と支持された慈雲につながり、明治の渋沢栄一に結実する。近代日本の資本主義はそのような思想的背景で形成されたのである。
 そうした歴史を見ても、宗教や思想を学ぶ意味は、自分の生き方をよりよくするためであり、それにより宗教・思想は生きて、発展するものとなる。他宗・多宗派に学ぶ意味は、視野を広げ、自分に合ったものを探すためである。比較研究から深層を探り、真の自分に近づくことが可能になる。

グローバル化の中で
 さらに鎌田教授の言葉を引用すると、「仏教に八宗(倶舎宗・成実宗・律宗・法相宗・三論宗・天台宗・華厳宗・真言宗)ないし十宗(八宗に浄土教と禅宗を加える)あるのは、人間に対する理解や、解釈の相違からきている。別に八種類の人間が存在するというのではなく、人間を理解する側面には八つあるということである。人間の存在そのものを八つの面からみようとして八宗が生まれたと考えればよい。仏教に八宗があるといっても、その根(もと)は釈迦の教えにあることは論をまたない。釈迦の教えが種々に解釈され、理解されて、歴史と風土の異なる地域に伝承されて八宗を生んだのである。八宗は歴史的な条件のなかで形成されたものでもある」
 グローバル化で宗教対立が懸念される今、その意味を深め実践したい。