江戸時代の医学と宗教

江戸東京の宗教と文化(6)
宗教研究家 杉山正樹

志水軒朱蘭『疱瘡心得草』より「疱瘡神祭る図」(京都大学付属図書館所蔵)

 争いのない泰平の時代が到来すると、多くの人々の関心は健康長寿に向かうようである。江戸時代も例外ではなかった。何よりも幕府開祖の家康自身が、健康管理に多大の関心を寄せている。「パクス・トクガワーナ」の到来は、民衆の健康意識をして大きな潮流を江戸医学に招来せしめた。漢方医学の体系化、民間療法の浸透、蘭医学の導入である。
 平安時代まで医療は、貴族や為政者の特権行為であった。鎌倉時代以降、ようやく民衆の元にもその門戸が拓かれたが、江戸時代初期までは医療と宗教は分かちがたく結びついていた。病は、「穢れ」や「因縁」の結果と見る神道的・仏教的疾病観が支配的で、彼らは神官や僧侶に修祓・祈祷を頼み、或いは社寺に詣で治癒を祈った。特に真言宗や天台宗の密教的祈祷、あるいは修験道の加持祈祷は、医療行為とほぼ同等の価値を持っていた。
 朱子学を統治の理念として選択した江戸中期以降、幕府は実証的・体系的な医学を重視し漢方を正統医学と位置づけた。室町期の田代三喜から曲直瀬道三に連なる系譜がこれを継承発展させる。医療者に「和漢の知識」と併せて「儒教倫理」を求め、医術そのものに道徳的思想観が色濃く投影され、浅田宗伯のような英傑も輩出された。医師の心得としてしばしば、「仁愛」や「報恩」といった儒仏混淆の徳目が語られるが、ここを端緒としている。
 「学問」としての性格を強め、それまでの呪術医療とは一線を画すかの如き江戸医学の動きであったが、大衆レベルでは両者は対立せず共存し、三十三間堂の楊枝加持、梅毒封じの笠森観音信仰など、従来の宗教的な疾病観も根強く残り続けた。天然痘のような原因不明の疫病に対しては、疫神を鎮める祭りや呪術的な護符が一般に信じられた。「疱瘡神」を祀る風習や「赤い物」を身につけて病魔を避ける習俗は、医学ではカバーしきれない精神領域において、宗教が果たす役割の側面を物語っている。
 庶民の民間療法としては、自家鍼灸治療が身近な存在であったが、巫覡信仰に根ざした「口寄せ」や「巫女」の存在も重要であった。彼女たちは、霊との交信を通じて病因を探り、神仏の意志を伝えることで治癒を図った。今日では疑似医療とされるこれらの行為も、当時の人々にとっては重要な「治療」の一形態であり、精神の拠り所となっていた。
 江戸中期以降、蘭学(オランダ医学)への関心が本格化するにつれ、解剖学や外科手術の知識が広まり、身体構造に対する理解が深まった。山脇東洋は、わが国で最初の人体解屍観臓を行った幕府医官であるが、これに刺激された杉田玄白が『解体新書』(1774)を著すのは、その17年後のことである。伊東玄朴の牛痘接種法の導入など、その後の蘭医学興隆の大きな画期は、広く周知されるところである。
 幕末から明治に至り、西洋化を目指す新政府は、漢方医学廃絶の方針を選択する。「医制」の確立により医師は登録免許制となり、新規の開業には西洋(ドイツ)医学の知識が必須とされた。民間療法は排除され、呪術師や修験道も修験宗廃止令で禁止される。江戸時代の医療文化が培った
「こころの養生」、「からだの養生」は大きく後退するが、漢方医学については、1950年の日本東洋医学会の設立によりようやく復権が果たされた。
 小石川養生所は享保七年(1722)、江戸の町医者であった小川笙船(しょうせん)の建言を容れた八代将軍吉宗の命により、小石川御薬園に設立された救貧院である。山本周五郎作『赤ひげ診療譚』は、ここを舞台としている。当時の江戸は、飢饉の影響などから離農民が恒常的に流入していた。将軍吉宗は、享保の改革の一環としてこうした貧窮民の社会福祉施策も打ち出していた。

小石川植物園園内近影

 養生所は、天明の大飢饉や天保の改革期にも貧民救済の拠点として、重要な役割を果たす。江戸後期には薬草研究の他、医師の育成にも寄与し、学術的拠点としての性格も強まる。しかし、明治維新により幕府が崩壊すると、幕府直轄の施設であった小石川養生所もその役割を終える。
 養生所の跡地は現在、東京大学大学院理学系研究科附属植物園(通称小石川植物園)として、薬草園の流れをくむ形で植物研究が行われ、日本近代植物学発祥の地に生まれ変わる。療養所の設置は、当時としては非常に画期的なものであったが、聖徳太子の「四箇院の制」もしくは光明皇后が設立した「悲田院・施薬院」にその原型を見ることができる。療養所の歩みを振り返ることは、日本医学史における「博施済衆(広く恩恵を施して多くの人々を救う)」と「慈恵(慈愛の心をもって他に恵みを施すこと)」の精神を再考する上でも、大きな意味を持つのではないかと考える。

(2025年7月10日付 825号)