キリシタン史の空白を小説に
連載・信仰者の肖像(7)
増子耕一
遠藤周作(1923〜1996)

旧満州の大連で育った遠藤周作が帰国したのは1933年、10歳の時だった。父母は離婚し、母に連れられて兄と伯母の住む神戸市に身を寄せると、伯母の勧めでカトリック夙川教会に通うようになる。35年、灘中学校に入学。洗礼を受けた。
41年、上智大学予科に入学し、翌年退学。その後受験にたびたび失敗し、43年、慶応義塾大学文学部予科に入学。信濃町のカトリック学生寮に入った。45年、同大学文学部仏文科に進学。
当時キリスト教は敵国の宗教と言われ、上智大学は軍部や警察から圧迫を受け、神父たちがつらい思いをしていた。それを遠藤は見てきた。
遠藤を育てたフランス人神父は警察に捕まり、拷問を受けた。戦争が終わって教会に戻ってきた時、やせ衰えていたという。信者らは拷問の傷が神父の身体を弱らせていたことを知っていた。
戻ってきた最初のミサで神父はこう言った。「私は決して日本の方を憎みません」。神父は生涯、拷問については触れなかったという。
遠藤にとって迫害下のキリシタン時代は昔のことではなく、自分が実際に体験したものの原型だった。戦後、平和な時代が来たが、キリシタン時代に自分が生きていたならばという仮定は、自分の体験から無関心ではありえなかった。
小説家としてキリシタン時代について研究を始めると、日本の先祖たちが西洋の宗教をどのように受け入れたのかをも考えざるを得なかった。
上智大学のチースリック先生のもとで、三浦朱門といっしょに研究を始めた。殉教者についての史料はおびただしく残っていたが、拷問や死の恐怖の前でそうなれなかった弱者や棄教者については何も語っていなかった。
キリスト教会にとっては「腐ったリンゴ」、語りたくない存在だった。その動機や心理は関心の外。キリシタン学者にとっても同様だった。その沈黙の灰の中に埋められた弱者たちも同じ人間である。自分の理想としたもの、もっとも美しく、善いものと思っていたものを裏切ったとき、その心はどうなるのか。小説家として無関心ではいられなかった。
この主題は後に、彼らを作品の中に生き返らせて『沈黙』として結実させた。沈黙には「神の沈黙」「歴史の沈黙」の意味があった。歴史の空白だった。
この小説の中に背教者となるイエズス会司祭フェレイラという人物が登場する。この人物の研究過程を綴ったのが「一枚の踏絵から」という随筆だ。史料がほとんど残っていなかったそうだが、宗門奉行井上筑後守によって捕らえられ、拷問され、棄教するとともに、その棄教を明らかにする「顕偽録」という文書を書かされる。
遠藤は、強制的に書かされて現代まで残された文書に、言いようのない悲しみを読み取った。そして末尾に「転んだ後にもフェレイラには、人々に役たとうとする司祭的な心理が残っていた。彼が日本人のために天文学と医学を教えたのは、おそらくその心理のあらわれだろう」と記す。
遠藤の作品によってキリスト教に興味を抱くようになった読者は多かった。88年、友人の作家、安岡章太郎が井上洋治神父から洗礼を受けた時、遠藤は代父として立ち会った。
(2025年7月10日付 825号)


