日蓮宗最上稲荷山妙教寺

連載・神仏習合の日本宗教史(25)
宗教研究家 杉山正樹

 

最上稲荷本殿

 岡山県全域と広島県東部、そして香川県の島嶼部と兵庫県赤穂地方は、古代日本の四大王権の一角、吉備国として強大な勢力を誇っていた。吉備文化揺籃の地である。吉備国では1万4000基の古墳が造営され、そのうち13基が全長100メートルを超える巨大な前方後円墳。全国4位の規模を誇る「造山(つくりやま)古墳」は、大阪堺市の「大仙古墳」と同時期のものとされ、岡山市北区には、西道に派遣された四道将軍の霊廟・吉備津神社/吉備津彦神社が鎮座する。吉備国は大和政権成立の戦略的要衝でもあった。
 吉備津神社から北西に15分ほど車を走らせると、最上稲荷(さいじょういなり)山妙教寺に到着する。開基は報恩大師、本尊は最上位経王大菩薩で日蓮宗の寺院である。
 1300年前の当地周辺は、修験の場に最適な山岳霊地であった。最上稲荷の開基とされる報恩大師は、奈良時代初めに備前国津高郡波珂(現在の岡山市北区芳賀)で生まれ(大和国との説もあり)15歳で出家、法華経寺(現在の岡山市北区日応寺)で快賢芳賀坊と名乗り修行し、30歳の時、大和吉野山に入る。その後、大和国子嶋(奈良県高市郡高取町)に住し、飛翔して昼は山城国清水寺で修行したという。

全国4位の大きさの造山古墳

 天平勝宝4年(752)、大師のもとに孝謙天皇の病気平癒の勅命が下る。大師は、後に最上稲荷発祥の霊地となる龍王山中腹「八畳岩」の岩窟に籠り祈願を行った。満願となる日の明け方、瑞雲に参じ降臨した最上位経王大菩薩を感得する。その神像は、左肩に稲束を背負い右手に鎌を持ち、如意宝珠をくわえる白狐に跨った天女であった。大師がその尊影を題目岩に刻み、霊域に安置し奉祀したところ、不思議にも天皇は無事快癒されたので、この功績により、報恩と摩訶上人の名を賜り官僧となった。
 またこの時、備前に四十八か寺を開く勅許を受けたという。その後の延暦4年(785)、桓武天皇ご病気の際にも大師の祈願により快癒、これを喜ばれた天皇は、大師に堂宇建立をお命じになられた。建立地を探し求めていた大師に「吉備国・龍王山のふもとに堂宇を定めよ」とお告げがあり、現在の場所に龍王山神宮寺が建立された。
 龍王山神宮寺はその後、備前・備中初の修験道場として栄えたが戦国時代、羽柴秀吉の備中高松城水攻めにより多くの堂宇や宝物・記録などが焼失、幸い本尊は場所を移し難を逃れた。その後、新しく領主となった花房家の庇護の下、関東より日円聖人を招聘、天台宗から日蓮宗に改宗し寺名を「稲荷山妙教寺」と改め慶長6年(1601)年、聖跡を遂げ再興した。爾来、祈祷の名刹「最上さま」として多くの人々の信仰を集めている。

龍王山中腹の八畳岩

 最上稲荷は、伏見・豊川と並ぶ日本三大稲荷として知られ、明治期の廃仏毀釈の難を逃れた数少ない神仏習合寺院の一つでもある。旧本殿や拝殿をはじめ数々の建物が、当時の形態を残す貴重な宗教遺産として現存し、登録有形文化財に指定されている。山頂までの山道は、巨石信仰・磐座信仰の痕跡が点在し、奥の院からは吉備平野や造山古墳などが一望できる。
 山道を折り返し八大龍王鳥居の分岐を右に進めば、大師創建による龍泉寺がある。本尊は最上位経王大菩薩、脇侍が八大龍王・鬼子母神・三面大黒天。これより最上位経王大菩薩のご尊格は、神道系稲荷神に密教が習合した「荼枳尼天(だきにてん)」であろう。敷地内の龍王池は、限りなく静寂で八大龍王の御神体とされる。湖畔全てがご神域であり、ぜひとも足を運びたい。
 岡山県には、総社市秦原廃寺一帯が渡来系氏族・秦氏の原郷であり、吉備国発祥の地であるとの伝承がある。岡山県郷土史家の山田良三氏は、『日本書紀』に記される応神天皇即位22年の吉備行幸「葉田葦守宮」(はたあしもりみや)を引用し、古代からつながる吉備と秦氏との縁(えにし)を紹介する。県内には秦氏との縁を想起させる史跡や地名が数多く遺される。
(2024年6月10日付 812号)