米づくりが生んだ日本人

2024年6月10日付 812号

 天皇陛下は5月14日、皇居にある生物学研究所脇の水田で恒例の田植えをされ、4月にまかれた種もみから育てたうるち米の「ニホンマサリ」ともち米の「マンゲツモチ」の苗20株を1株ずつ植えられた。皇居での稲作は昭和天皇が農業奨励のため始められた行事で、秋に収穫される米は11月に皇居で行われる新嘗祭などで使われる。
「農政の憲法」とも言われる食料・農業・農村基本法の改正法が5月29日、ロシアによるウクライナ侵攻や気候変動などを背景に、食料安全保障の強化などを盛り込み成立した。1999年制定の基本法の本格的な改正は初めてである。

米が自給できなくなる?
 近年、日本農業の危機が叫ばれている。農学者の高橋五郎愛知大学名誉教授は著書『食料危機の未来年表』(朝日新書)で「日本の食料自給率は18%にすぎない」と警告している。農水省はカロリーベースで38%としているが、畜産飼料の輸入量を計算に入れると18%でしかなく、これが国際標準だからだ。韓国や台湾も同様で、国内の耕地面積が狭く、食料や飼料を輸入に頼る工業国の現実だ。世界が平和ならそれでもいいが、ウクライナ戦争が夢を砕いた。
 さらに少子高齢化により、日本の農業従事者の平均年齢は2035年に80歳になり、酪農家は半減、かろうじて自給できていた米も50年には生産量が今の50%に減ってしまう。スーパーには食品があふれているので、国民の多くは日本が食糧危機になるなど実感できないだろう。
 日本が米以外の穀物を輸入に頼りだしたのは1961年制定の農業基本法による。その前には、戦後、余剰農産物を抱えた米国が、小麦やトウモロコシなどを日本やドイツなど敗戦国に買わせたことで、食糧自給の意識が薄れた。以後、加工貿易による工業立国を目指してきた日本の脆弱性が今、露呈しているのである。
 国際情勢に追い打ちをかけているのは温暖化などの異常気象で、耕地は世界的に減少している。化学肥料や農薬の多様、農機具の大型化、経営規模の拡大がそれらをカバーしてきたのだが、微生物の死滅、土壌劣化などでその限界も見えてきた。
 高橋教授が提案する対策の主眼は、農協や零細農家保護の農地法の改正による農業参入の自由化である。やる気のある若者や企業の参入により、農業の生産性を飛躍的に向上させるか、定年退職者が中心の集落営農により地域の農業を守るしかない。農業に手厚い補助金を出しているのは米国をはじめ世界共通で、むしろ日本は少ない方だという。
 静岡市にある弥生時代後期の登呂遺跡を見ると、稲作の基本は変わっていない。水田域は約10ヘクタールで、その中央に幅2・5メートルの中央水路が通り、平均50×20メートルの大区画の中に、5×3メートルほどの小さな水田がある。遺跡は安倍川の下流の扇状地で、砂や粘土が堆積し、伏流水が湧くのが水田に適していた。
 稲作で今も一番苦労するのは雑草対策で、水を張ると雑草の発生を抑えられる。そのため灌漑設備と平坦な田んぼが必要で、木枠で水路やあぜを補強していた。住居は約20軒で、田んぼは1戸当たり平均5アール。家族は3アールで養え、残り2アールの米は交易に使われていたという。
 今との大きな違いは、当時の稲は熟れる時期がまちまちなので、成熟した穂だけを石包丁で切りとっていた。一斉に熟すようになったのは品種改良されてからである。
 穂は乾燥して各戸の倉庫に保存し、大きな高床式の建物は祭祀に使われていた。自然の恵みに感謝しながら、災害のないことを祈っていたのだろう。それが日本の宗教、日本人の集団形成の原点となった。

古代日本の形成
 米作には知識と経験、技術に加え、共同作業が欠かせない。古代宗教は集団を統治する手段として発達し、祭祀として確立してきた。人々は要望を伝え、受け取り合いながら、好ましい人間関係を築いてきたのであろう。古老が語る知恵や教訓は集団の物語として受け継がれ、神話として残されたものもある。
 日本語の「働く」はいい言葉で、はた(近くの人)を楽にする、楽しくさせると読める。米作に一人ひとりが汗を流すことから、日本人の協調性や公平感が形成されてきた。やがて普遍的な宗教である仏教が渡来すると、そこに日本人の心性に通じる思想を発見し、律令制と合わせ国づくりに活用できると考えたのが聖徳太子である。最新のITを応用しながらも、米作には悠久な歴史があることを忘れないようにしたい。