宗教とのかかわりに見る民衆の力と祈り
江戸東京の宗教と文化(7)
宗教研究家 杉山正樹

江戸時代の災害
「大東京の再造についてはこれは極めて慎重にすべきで、思うに今回の大しん害は天譴(てんけん)だとも思われる。明治維新以来帝国の文化はしんしんとして進んだが、その源泉地は東京横浜であつた。それが全潰したのである。しかしこの文化は果して道理にかない、天道にかなった文化であったろうか。近来の政治は如何、また経済界は私利私欲を目的とする傾向はなかったか。余はある意味において天譴として畏縮するものである。」(『報知新聞』1923年9月10日付夕刊)
関東大震災の8日後、新聞社のインタビューで渋沢栄一は「天譴論」を唱えた。「天譴」は天の譴責、即ち天罰のことで、軽佻浮薄に流れる人間社会を天が懲らしめる為にもたらした罰だとする考え方である。「天譴」の思想は、元々儒教主義に範を置くものであるが、奈良・平安の王朝時代に既にこの「天譴」という言葉が用いられた。この言葉の本来の意味は、「為政者に対する天の譴責」とされているが、渋沢の時代に再登場したこの天譴の思想は、「浮かれ過ぎ、堕落した国民を懲らしめ、或いは目を醒まさせんがために天が起こした震災」という「大正版天譴論」のニュアンス、日本資本主義の父の遺訓であった。
戦乱が終息し平和が訪れた江戸時代であったが、その裏面では災害や疫病が度々民衆を襲った。大地震が発生するプレート境界に隣接する関東平野は、火山活動など様々な災害リスクに晒されていた。14世紀半ばから19世紀半ばの地球環境は、「小氷期」と呼ばれる寒冷期に該当していた。このため小氷河期にすっぽりはまる江戸時代は、天候不順による冷害・飢饉に度々襲われた。1783年の天明の大飢饉は、浅間山の噴火と冷夏が直接の原因となる複合災害であった。
江戸は、都市造営の上でも多くのハンデを抱えていた。城下の大半は、海を埋め立てた低湿地帯であり、洪水や高潮の被害を受け易く水害が頻発した。五街道と海運の整備により全国と繋がる物流・人的交流の中心地となると、地方で流行した疫病が短期間のうちに到達するケースも増えた。人口が爆発的に増加した17世紀後半、江戸は世界最大級の都市に成長するが、井戸や河川の汚染により疫病が度々流行した。しかしこうした逆境が、優れた治水技術の革新を促した。
急激な都市化に伴い木造住宅の密集地が誕生、火災が頻発し大火が度々江戸を焼き尽くした。本郷丸山・本妙寺を出火元とする明暦三年(1657)の「明暦の大火」では、江戸城天守が焼け落ち市中の6割が焼失、10万人を超える死者を出す大惨事となった。この大火の後、幕府は都市改造を行い、浅草寺や寛永寺など仏教寺院を防火帯として機能させる災害設計を進めた。

江戸時代は、記録文化が開花した時代でもあった。そのため災害の記録が豊富に書き留められ、被害の大きさが記録や文学、錦絵、瓦版などで広く伝えられた。「災害都市江戸」のイメージが定着するが、民衆は災害の度に「復興と再生」を繰り返し、街と暮らしを守り江戸庶民の逞しさが費えることはなかった。江戸の災害は、都市化の副作用としての「予期せぬ災害」であったが、民衆はそれを「災害との共存」「共同体の力」で克服した。水難者の供養や水難防止祈願の水神祭も兼ねた「両国川開き」は、災害による不安や恐怖を集団的祝祭の形で昇華させた宗教的カタルシスであった。その後、様々な伝承が生まれ、「隅田川花火大会」として今に受け継がれている。ここに江戸庶民の災害への世界観・智慧を学び取ることができよう。
オランダの文化人類学者C・アウエハント(1920〜1996)が世界に紹介した「鯰絵」は、災害に向かう江戸庶民の力と祈りを端的に表象した文化所産である。「鯰絵」の流行は、黒船来航の翌々年、安政二年(1855)に起きた安政大地震の直後に始まる。この大鯰が大暴れし「世直し」をするというモチーフも多数存在した。権力と特権商人・豪農の癒着、大江戸繁盛の陰で困窮する都市民の感情が、逼塞した大鯰として描かれる。「鯰絵」は、余震の恐怖を和らげる護符の代用品、被災者たちの憤りと怒りの解放、復興へのエネルギーとして民衆に愛顧されたが、富と権力の極端な偏在が地震や不景気をもたらすというモチーフは、冒頭の「天譴」思想に通じるものである。
江戸時代において災害や疫病は、単なる自然現象ではなく、人と神仏、社会と形而上の関係を再認識させる契機となった。宗教はただの慰めではなく、生活の中に組み込まれ「秩序の回復装置」としての機能を果たして行く。そしてそれは、令和に生きる現代人にとっても、災害と共に生きる覚悟/祈りの在り方を見つめ直す重要な手がかりとなると考える。
(2025年8月10日付 826号)


