米財閥男性に嫁いだお雪 その信仰の歩み
連載・京都宗教散歩(37)
ジャーナリスト 竹谷文男

働く女性の守り所として知られる折上(おりがみ)稲荷神社(京都市山科区)で6月8日、例大祭が斎行され、多くの女性が参拝した。江戸末期に孝明天皇が即位される時、仕える女官の多くが病気になったため同社に祈祷が命じられてその後、彼女達は奇跡的に回復した。このことから同社は「働く女性の守り所」として信仰を集め、「折上稲荷様の御利益は、折り紙付きや」と言われた。
この折上稲荷神社を篤く敬った明治の女性の一人が「モルガンお雪」と言われたユキ・モルガン(明治14年〈1881〉〜昭和38年〈1963〉)だった。ユキは祇園の芸妓だったが、世界三大財閥と言われモルガン財閥の総帥JPモルガンの甥ジョージ・モルガンから明治34年(1901)、求婚された。
もとは京都寺町の刀剣商・加藤平助の娘だったが、14歳からは、姉が祇園に開いたお茶屋『加藤楼』で芸妓お雪として働いていた。この時、お雪が懇意にしていた客の一人が、日本初の職業的映画監督で「日本映画の父」と呼ばれる牧野省三だった。お雪の相談に乗った牧野は、求婚を断る文句として、芸妓としての籍を抜く落籍料4万円(現在の8億円相当)が必要だと言うように入れ知恵したといわれている。求婚していたモルガンはこれを了承し、二人は、明治37年(1904)横浜で、結婚式を挙げた。
当時、モルガン財閥にとっても4万円という額はすぐには呑めるものではなかったが、交渉を受け持ったモルガン側の弁護士ビゲローは、ユキに接してその人柄に心服し、生涯ユキに誠意のある対応をしてくれることになった。
結婚までの期間、ユキは世間から「現代のシンデレラ」とも「金の亡者」とも騒がれた。折上稲荷神社の境内左側に、石造りの鳥居が立っているが、これは『加藤楼』が奉納したもので、石柱には奉納者の一人として「加藤楼稲吉」の名が彫られている。これはユキであることを知られないようにと伏せた変名で、ユキが折上稲荷神社から福を頂いたという意味を込めたものだった。
またこの期間、世間の騒音から逃れて静かに過ごせる場所として、加藤家の菩提寺である五大堂同聚院(京都市東山区東福寺の塔頭)に日参し、爾東嶺(そのとうれい)和尚に師事した。五大堂同聚院もまた、働く女性のお参り所とみられている。こうしてユキは心の平安を取り戻してモルガンを待ち、モルガンは晴れてユキを正妻としてアメリカに渡った。

米国では当時、極東の日本から来た婦人、しかもゲイシャ・ガールだったユキを容易に受け入れる空気ではなかった。厳しい家風のモルガン家の米国を離れて2人は、フランスに住むことになったが、第一次世界大戦中に夫のモルガンは心臓麻痺で死去してしまう。米国に渡った時点で無国籍となっていたユキは、未亡人となった今、モルガンの妻である以外の身分証明は無いという不安定な状態だったが、ビゲロー弁護士はその身分を守れるように動いてくれ、モルガン家からの遺産をも守ってくれた。
ユキはその後、ニースに移り住み、カトリック教会に通い、そこで聖女テレジアに心酔するようになった。ニースではさらに、フランス陸軍士官で、かつカンボジア語研究者だったダンダールと一緒に住み始め、彼の研究を援助した。しかし、ダンダールも心臓発作で急死したため、ユキは彼の研究結果であるカンボジア語の辞書の完成を待って日本に帰国した。帰国後は、人生の最も盛んな時期を過ごしたフランスで出会ったカトリックへの信仰を強め、71歳で洗礼を受け、その10年後の昭和38年(1963)、81歳で生まれ故郷の京都で死去した。
ユキの信仰は、幼少期には稲荷神社に手を合わせ、仏門に心の平穏を求め、カトリックに出会ってはその信仰に基づく生き方に憧れ、年月を経て洗礼を受けるという近代の日本人に多く見られる遍歴だった。
(2025年7月10日付 825号)


