和芸─江戸文化の宗教的精神構造─

江戸東京の宗教と文化(11)
宗教研究家 杉山正樹

三社祭で神輿を担ぐ人々(パブリックドメイン)

 徳川家康は、極めて合理的・制度的な宗教観の持ち主であった。久能山と日光の東照宮を創建した事績から、神仏を深く敬う人物のように映るが、家康にとって宗教とは天命や奇跡を僥倖する崇拝の対象ではなく、「人が理(ことわり)に従い心を正しく保つための方便」つまり〝統治の補助線〟であった。家康は、理性と節制を説く儒教的思考を何よりも好んだが、臨済宗や曹洞宗の禅にも親しんだ。ただしそれは、坐禅や禅問答によって悟りを啓くというより、心の安定と決断の明晰さを求めた実践としての禅であった。
 家康の宗教観の根底には、「神仏は人を導くが、人の務めを代わりに果たすものではない。」「宗教は他力ではなく、自らを律する力の拠り処である。」という〝信念〟があ
ったと思われる。家康は、自らの死を見据えて「神」となることを選んだが、それは信仰というより政治的象徴の永続化であった。「東照大権現」として祀られることで、〝家康型神授王権〟の樹立を目指したものであった。
 家康の遺志を受け継いだ江戸幕府はこれに倣い、宗教を「信仰」ではなく「秩序の器」として構築した。仏教においては、檀家制度を通じて戸口を管理し、儒教においては、忠孝・礼節の理念によって上下関係を倫理化した。神道では、地域共同体の連帯を支える祭祀として位置づけたが、これらはすべて社会を精神面から統御するための仕組みとなった。これらはおしなべて、「外なる宗教」としての機能に留まっていたと言えよう。
 しかしながら民衆は、この「外なる宗教」を漫然と受け入れていた訳ではない。むしろ宗教を統制の枠組みの中で日常の所作・心の美・生きる技法へと内面化し、「和芸」とも呼ぶべき「内なる宗教」へと転化し、江戸の文化を育んで行った。儒教がもたらした「礼」について見れば、支配秩序を保つ本来の形式が、庶民の手に渡ることで「他人を不快にさせぬ所作」「心を和ませる礼法」へと変容した。茶道・華道・武道などに見られる「礼の美」は、権力のための形式が人と人とを調和させる嗜みへと昇華した証左である。

カール・ヴァールボム《三十年戦争 リュッツェンの戦いにおけるスウェーデン国王グスタフ2世アドルフの死》スウェーデン国立博物館蔵(Nationalmuseum, Sweden)パブリックドメイン(Public Domain)/所蔵番号:18031


 一方、仏教の「無常観」は悲嘆ではなく「今この瞬間を生きる」観想を育てた。俳諧や浮世絵に見られる「うつろいの美」「粋」の思想は、まさに宗教的救済を世俗の美意識へ転化したものである。宗教が人生の彼岸を説くのではなく、此岸の生を愉しむ芸へと転換された点に江戸文化の独自性がある。また、町人が神輿を担ぎ、囃子を響かせる神道の「祭り」の光景は、「祈り」「遊び」「共同体」が渾然一体となり、神を演じる原点となった。
 江戸の社会では、宗教の統制が却って自由の内面化を促し、民衆は形式に従いながらも心の遊び場を個々に見出した。茶の湯の一服における静寂、俳諧の一句に宿る軽妙、浮世絵の色彩に漂う諧謔─これは、「形は縛られても心は遊ぶ」という精神の闊達でありこの精神が「和芸」の根幹となった。家康は、信仰がもたらす共同体の結束力〝民の心の独立〟を恐れたが、彼が敷いた〝高すぎる精神の防波堤〟が故に、「和芸」への転化が起きたと言えよう。
 同時期のヨーロッパでは、「三十年戦争」の終結で神聖ローマ帝国が実質的に解体、カルヴァン派が公認され、これがその後の市民革命・近代資本主義の嚆矢となる。西洋社会はやがて、フランス革命と流血の揺り戻しを経験するが、1848年の「二月革命」により、千年に亘る封建体制が終わりを告げ政教分離が加速する。信仰はもはや国家統治の要ではなく、世俗化の波と並行する形で、個人の選択の自由として委ねられて行く。
 江戸幕府と近世欧州の宗教政策は、同じ出発点から異なる道を辿った兄弟のようである。いずれも宗教を国家秩序の要と位置づけたが、幕府は調和を重んじ欧州は理性を選んだ。江戸の宗教政策と西洋の歴史的転換は、対照的でありながらも「信仰の自由」「社会の安定」「公共の福祉」の鼎立といった、今日的課題について示唆に富む鏡像を映し出している。宗教を排除することも政治に従属させることもなく、その内面の力を引き出し社会の倫理秩序に結びつけた民衆の知恵と工夫—苦闘の中で編み出された江戸の文化が、今もなお万人に愛され魅了される所以がここにあると筆者は考える。