天命の転換と皇道の顕現
江戸東京の宗教と文化(10)
宗教研究家 杉山正樹

幕末の動乱は、単なる政権交代ではなかった。260年にわたり日本の秩序を支えた徳川幕府がその役割を終えるまでには、「19世紀グローバリズム」とナショナリズムの激しい葛藤があった。開府当初、幕府は信仰の統御を以て国家の安寧を図った。キリスト教的神国思想の流入を警戒し、主従の義と家族の倫を護るための政治的・宗教的決断であった。幕府は、儒教を官学とし仏教を宗門制度に位置づけ、神道を以て国体の象徴とした。この三道の調和が、わが国の信仰的秩序の原型となった。
やがて時代は安定し、町人層の興隆と共に江戸文化の華が開く。浮世絵や歌舞伎、俳諧や町人文学—いずれも幕府の治世があってこそ栄えた文明の果実であった。これらは人の世の哀歓や無常を感じ取り、日本人が併せ持つ粋(いき)の感性を笑いと風刺で表現する「美的精神文化」であった。また、寺子屋や藩校による庶民教育の広がりの中、識字率は世界に冠たる水準に達し、学問の
普及が民智を養い、やがて明治国家の人的基盤となった。江戸の文化は、武士の倫理と町人の才智、そして宗教的寛容が渾然と融け合う「繋がる文化」であり、このオールワンが近代化の原動力となる素地を育てた。
しかしながら、膨張する経済に対し皮肉にも秩序は揺らぎ、天保の改革以降、幕府の威信は急速に衰える。百姓一揆や打ちこわしが続発し、海の向こうからは異国船が姿を現す。戦国時代の末期、日本の鉄砲保有率は世界一であった。西洋列強は、日本が難攻不落・屈指の軍事大国であることを見抜いていた。その後、世界は様変わりし、列強は急速な近代化を遂げる。将軍慶喜は鎌倉幕府以来、約700年にわたる武家政権を天皇に返上し、武士の世の終わりを告げた。
幕府の滅亡は、新たな時代へと日本を繋ぐための近代化への必然であり、天命の転換であった。儒仏神の交錯の中で生まれた国学と水戸学は、「天照大神の御裔たる天子」を国体の中軸と見なし、皇道をもって世界に対峙する日本の理念とした。徳川の政治は、自ら退いてその精神を朝廷に託したが、明治維新の底流には、江戸幕府が培った文化と教育、そして思想・宗教の調和の精神が溢れていた。徳川の260年の治世がなければ開国後の日本は、西洋の衝撃に耐えるだけのレジリエンス(resilience)を持ち得なかったであろう。
幕府が築いた泰平と文化の基盤こそ、近代日本を育む母胎となった。明治維新の英気、文明開化の知的胆力、そして「和を以て貴し」とする国民性─江戸庶民が拓いた文化的素養がこれらを錬成した。日本は、国難の折に必ず天子の御稜威(みいつ)が顕れる神州であり、天命は常に皇道へと収斂する。徳川の退場は、天命の継承であり皇道の顕現であった。平和を守り、文化を育み、国の形を整え、そして次代へと天命を渡した─それが江戸幕府の真の功績であろう。

一方、「元和偃武」の徳川260年は、その長さ故に招来される「泰平の世の罠」を教訓として遺した。戦いがない社会は外患を想定しない楽観論を生み、幕府も庶民も外の世界への関心を失った。これに鎖国文化が追い打ちをかける。文化鎖国は、国内秩序の維持には役立ったが、世界の動きから取り残される必然を生み、黒船の出現は「ブラック・スワン」の衝撃となった。情報の閉塞は、異文化や異見を排除する体質へと向かうが、倒幕運動当初の攘夷論者の主張はここを突端としていた。
江戸幕府の身分制度は、社会秩序の安定化には貢献したものの、身分と機会の固定化が「才能の流動性」を著しく拘束した。生まれによる差別は上昇機会の喪失をもたらし、有為の人材の可能性を封じ込める社会を形成した。幕末の脱藩志士の意気がここに示されている。また、経済が成長するほどに富が偏在し、没落困窮民との間で社会の階層化が進んだ。飢饉や税に反発する一揆に対して幕府は、彼らの声を政策に反映する仕組み・有効な公共政策を打ち出す発想を持ち得なかった。経済の安定は、富の循環があってこそ持続するが、これは古今東西に通じる真理であろう。
倫理の形式化と宗教の形骸化も、江戸の末期に見られた信仰統御の弊害であった。儒仏神の教えが形式だけの徳目となり、「生きた信仰」「内面の刷新」が退潮して行った。民衆は、「権力を超えて人を導き」「秩序を超えて心を解き放つ」魂の救済を渇望した。「幕末三大新宗教」は、このような時代背景から誕生する。
(2025年11月10日付 829号)


