日本における宗教の役割と政教分離とは

杉原誠四郎・元武蔵野女子大学教授に聞く

杉原誠四郎氏

 日本人の宗教観や日本国憲法で保障されている信教の自由の観点から政治と宗教のかかわり、そして、グローバル化時代の日本社会において、宗教がどのような役割をもつのか、宗教法人法に詳しい元武蔵野女子大学教授の杉原誠四郎氏に伺った。(石井康博)

 ――日本古来の宗教である神道についてはどのようにお考えですか。

 日本の神道は弥生時代の稲作文化を基盤にしてできた自然宗教です。だから教義はありません。しかし自然宗教というのはどこの国でも古代には存在していたものです。

 この自然宗教は文明の発展によって新しく生まれた宗教によって席巻されていきますが、日本の場合は古代の自然宗教のときの祭主である天皇が現在も国家の象徴として存在し続けているので、滅びることなく今日も存在し続けているのです。自然宗教として日常の生活感覚にも合っているので、現在の日本国民も天皇とともに神道も絶対に捨てないのです。

 ――日本は仏教も盛んですね。仏教についてどのようにお考えですか。

 日本の仏教は、神道の祭主たる天皇によって、中国や韓国から取り入れられました。日本人は仏教を取り入れることによって、人間とは何か、生きるとはどういうことかを考えるようになりました。

 神道の祭主たる天皇が取り入れたことゆえに、また、仏教も神道と同様に多神教的であるゆえに、仏教と神道のあいだでは衝突は起こりにくく、日本人をしてシンクレティズム(重層信仰)の信仰をもたらすことになりました。重層信仰とは、日本人が2つの宗教を同時に信仰することですから、仏教と神道のうち、一方が一方的に国民に服従を求めるようなことはしない宗教文化ができました。

 こうして神道をも信仰しながらの仏教信仰は日本人にとって不可欠な信仰になりました。私はすでにお話ししたとおり、仏教徒です。つまり私の場合、神道の信仰も大切にしながら仏教を信仰するという仏教徒です。

 ――そのような立場からキリスト教についてはどのようにお考えですか

 先ほども言いましたように、全ての国で古代には自然宗教が存在していました。ヨーロッパでも同じです。キリスト教がヨーロッパ全土に広がる前にはそれぞれの地域で自然宗教が在ったと考えるべきです。そこに、ものごとを一元的に考えるキリスト教が広がって自然宗教が淘汰されていったといえるでしょう。

 全ての原因を一つの神に置く一神教の誕生は、宗教としては一つの飛躍であり、発展だともいってよいものです。

 しかし、そのキリスト教の教義の説明の中には現在の自然科学から見ると受け入れがたい非科学的事象が多く含まれています。

 キリスト教が全てを創造の神のもと、ものごとを一元的に整理して考える宗教であるゆえに、キリスト教圏で、自然を一元的に説明しようとする自然科学が発達したと考えるべきでしょう。そう考えれば、キリスト教は人類の文明に多大な貢献をしているということになります。

 ――21世紀になって、何ごとにも国際化、グローバル化が叫ばれています。それに対して宗教はどんななことに気をつけなければならないのでしょうか。

 近現代の国家では、複数の宗教が同時に存在するようになり、また他方で、思想・良心・信仰の自由を国民に与えなければならなくなり、そのために考えられ出てきたのが政教分離の原則です。国民に好きな宗教の信仰を保障し、そして国家は宗教に介入せず、宗教の自治に任せるという原則です。

 世界にはまだ政教分離を行っていない国もたくさん在りますが、国民に好きな宗教を信仰する自由を保障することは近現代国家において不可避です。そう考えれば、政教分離の原則は普遍な原則だということになります。

 そこで問題になるのが、国際化、グローバル化のなかで、多くの宗教が多く接触しあうことになり、宗教間の衝突も起こりやすくなっていることです。

 私は一つの国家、社会に他から入ってきた新しい宗教は、その国家、社会の宗教文化を壊さないようにしなければならないと思っています。そのことが国際法的に成り立たつようにしなければならないということです。

 信仰の自由のもと、新しい宗教が新しい国、社会に入っていこうとするとき、その国の宗教文化を壊さないようにして信仰の自由を享受するようにすべきだと思います。それが世界全体から見たときの普遍的な信仰の在り方だと考えるからです。

 宗教文化はそれ自体、国民の信仰生活にとって極めて重要なものです。そうした宗教文化のなかで個々の宗教の信仰は平和的にして、和やかで、くつろいで、穏やかな信仰生活ができるのだと思います。

 特にキリスト教圏で考えた場合、その非科学性ゆえにキリスト教に批判を持つ信仰者は多いと思います。が、たとえ、内心でキリスト教に批判が生まれているとしても、その国家や社会の宗教文化を壊そうとするのは正しくないと思います。

 ――日本の場合、戦争に負けて占領期に宗教に関わる改革が行われましたが、そのことについてはどのようにお考えですか。

 日本の場合、このことについて特記すべきことがあります。

 日本では戦前では、祭祀は宗教ではないとして、祭祀の側面の大きい神道を宗教ではないという論理によって、神社への参拝を強要したりすることがありました。

 戦争に負けて、日本はマッカーサーを中心とするアメリカ軍の占領下に置かれました。そこで占領軍は、祭祀も宗教であるとして、それを前提として、政教分離の徹底を図りました。

 占領軍は、そうした強い指導をすると同時に、日本の宗教文化を破壊するようなことはいっさいしませんでした。

 戦争で亡くなった人を祀る靖国神社で、戦前は祭祀で宗教ではないとして陸軍と海軍が直接に管理していました。それゆえ、占領軍内部には軍国主義の象徴として焼却することも考えられた時期があったようですが、最終的には、どの国の国民も国のために戦って死んだ人を祀る権利と義務を持っているとして、靖国神社を焼却はしませんでした。

 占領軍の政策が全て完全に普遍的かどうかはともかく、宗教については普遍的な政策を進めようとして腐心していたことは明らかであり、これは世界的に評価してよいと思います。

 すぎはら・せいしろう 昭和16年(1941)広島県生まれ。昭和42年(1967)東京大学大学院教育学研究科修士課程修了。城西大学教授、武蔵野女子大学教授を歴任。現在、国際歴史論戦研究所会長。新しい歴史教科書をつくる会前会長。全国教育問題協議会顧問。 著書はとしては、教育学に関するものとして『新教育基本法の意義と本質』、法学、政教分離に関するものとして『法学の基礎理論―その法治主義構造』『日本の神道・仏教と政教分離―そして宗教教育』『理想の政教分離規定と憲法改正』がある。その他共著として、戦後の歴史認識を改めるためのものとして『吉田茂という反省』『吉田茂という病』『続・吉田茂という病』がある。