葵祭「路頭の儀」「社頭の儀」

平安絵巻が都大路を進む/京都市

腰輿に乗り、御所の建礼門前から土塀に沿って進む斎王代=5月15日、京都御所

 京都三大祭りの一つ「葵祭」が5月15日に行われ、平安装束に身を包んだ祭列が京都御所から両賀茂社へと巡幸する「路頭の儀」と、両賀茂社で賀茂大神から神託を拝受する「社頭の儀」が斎行された。両賀茂社とは、京都市北区の上賀茂神社(賀茂別雷神社)、および京都市左京区の下鴨神社(賀茂御祖神社)を指し、いずれも世界遺産である。
 500人からなる長さ約1キロの祭列は、京都市上京区の御所の建礼門前から土塀に沿って進み出て爽やかな緑風の中、下鴨神社を経て加茂川の堤を北上し、上賀茂神社へと約8キロを歩んだ。
 祭列の「本列」は、馬に乗った「近衛使代」が率いる男性たちの列で、近衛使代の馬は銀面を着ける。続いて車輪を軋ませながら藤の花などで彩られた牛車が歩む。
 それに続くのが平安衣装で着飾った女人列で、専用の輿「腰輿(およよ)」に乗った「斎王代」が主役である。斎王代は、かつて皇女から選ばれていた「斎王」に代わって京都にちなむ未婚女性から選ばれる。川沿いの並木から新緑の木洩れ陽がそそぎ、沿道の観光客らはカメラやスマートフォンを手に、平安絵巻を楽しんだ。この日の人出は3万5000人。第66代斎王代に選ばれた松浦璋子(あきこ)さん(22)は、重さ20キロ以上の十二単をまといながら笑みを絶やさず、一日中続く御奉仕をつとめきった。
 葵祭はもとは賀茂祭と呼ばれていたが、祭儀に関わる全ての人、牛車、牛馬に至るまでハート形の葉をした二葉葵を挿し飾ることから、江戸期から葵祭と呼ばれるようになった。祭祀の起源は、太古において上賀茂神社の祭神である賀茂別雷大神が背後の神山に降臨されたことにちなむ。また、欽明期(540〜572年)に、鈴をつけた馬に人が猪の頭(かしら)を被って走った神事に由来するともいわれる。
 平安時代、加茂祭は勅祭となり、行列を見ようと内外からの人であふれかえった。明治天皇が勅祭として復興され、戦時には中断されたが、昭和28年(1953)に今の形で復活した。
 葵祭で最も重要な神事は「社頭の儀」で、「勅使代」の携えた天皇の御祭文を両賀茂社の宮司が賀茂大神に取り次いで、その御神宣を勅使代に返して授ける。権宮司は、跪いて神宣としての「返祝詞(かえしのりと)」を申し上げて手を拍つと、勅使代は応じて「合せ柏手」を返す。最後に宮司が神前からの神禄(しんろく)の葵を、勅使代に授ける。この「神宣」と「返祝詞」によって、天皇からの御祭文が賀茂の神様に無事収められた証しとなる。この点、神の依代としての神輿などが巡行する一般の祭とまったく違う勅祭であるため、古式ゆかしい伝統と所作が葵祭の魅力となっている。