禅の精神が茶道を形成した

連載・信仰者の肖像(8)
増子耕一

芳賀幸四郎(1908〜1996)

芳賀幸四郎

 

 墨蹟には印可状や、法語、偈頌(げじゅ)があったが、茶の普及とともに広まったのが「無」「喫茶去」「白雲自去来」などの一行物だった。
 中世文化研究の第一人者だった芳賀幸四郎が、茶の湯に用いられる禅語について雑誌『淡交』に解説を連載し、『禅語の茶掛 一行物』(淡交社、昭和38年)を刊行するとロングセラーになった。そして読者の問い合わせについて答えて書いているうちに、このシリーズは5冊に。
 劈頭「一」についてこう記す。
 「存在する一切のものがそこから生まれ、そこに帰るところの唯一絶対なものを意味している。万物の始原であり、かつ究極である宇宙の大声明を意味している」。
 茶掛けの意味を深く考えずに来た師匠や愛好家たちが芳賀の愛読者になった。
 芳賀は1908年山形県寒河江市の生まれ。東京高等師範学校卒業後、郷里で中学校の教師をしたが、上京して38年東京文理科大学に入学、41年に卒業。64年母校の文学部教授になり、71年の定年退職後は大東文化大学教授を務めた。
 著書に『東山文化の研究』『千利休』『墨蹟大観』などがあるが、人間禅の師家でもあった。生前インタビューしたとき、こう語ってくれた。
 「昭和8年の秋ごろ、禅に出会い、翌年の3月から正式に座禅の修業に入りました。人生いかに生きるべきか悩んで、キリスト教に走ったこともあり、共産党の末端に入ったことも、哲学にも没頭したこともありました。禅に出会ってこれだと思ったのです」
 師は臨済宗妙心寺派の両忘庵釈宗活老師。釈宗活は円覚寺の洪川宗温と釈宗演に学び、出家得度した。が、寺の住持にはならず、居士禅の会、両忘会を再興して禅風を広めた。夏目漱石が『門』で若き釈宗演を描いたが、芳賀が会ったときは63歳だったという。
 芳賀は庵号を如々庵とし、居士号は洞然。『禅語の茶掛』に登場する印可状や法語、偈頌は、体験として禅を知らなければ理解できないものが多いのだという。
 「参考書はありませんでした。この和尚は何を言っているのか、公案となり、座禅をし、何日でも考えつづけた」
 『禅語の茶掛』はそれだけに精彩で含蓄が深い著作なのだ。人間禅で担当したのが新津、函館、札幌の各支部。札幌に道場を建てる時、芳賀はその建設費用をつくった。協力してくれたのが茶の湯関係者だった。
 芳賀は禅語を揮毫し、それを茶の愛好家たちに入手してもらった。1枚1〜2万円で、4千枚書いた。その揮毫は『禅語の茶掛』にも掲載されている。墨蹟を見る場合の心がけを同書でこう記している。
 「それを生み出した筆者の道力のたくましさと、禅機の豊かさとを深く味わい、筆者の気迫と風格とに触れ、自らの未熟さを反省し、心を洗うことを第一義とすべきものである」
 「字がへたで恥をかきました」と回想していた。


(2025年8月10日付 826号)