片手に算盤、片手に十善法語

2021年4月10日付 774号

 「鑑真和上と戒律のあゆみ」展の図録の最後に、江戸時代中期、大坂商人の間で「片手に算盤、片手に十善法語」と称された慈雲尊者の紹介があった。福沢諭吉の「論語と算盤」ほど知られてはいないが、日本資本主義の倫理を形成した思想としては、より重要であろう。
 折よく、NHKラジオ第2放送「宗教の時間」で昨年10月から今年3月まで、小金丸泰仙師による「慈雲尊者の仏法 この世のまことを生きる」があった。「尊者」とは釈尊の身近な弟子に対する尊称で、戒律の希求は釈尊への原点回帰運動であったことからも、同展の末尾を飾るにふさわしい僧のように思う。その意味で、今も戒律は求められている。

コロナ禍の戒律とは
 万葉学者の上野誠奈良大学教授は、近著の『万葉集講義』(中公新書)で「漢字も、儒教も、仏教も、律令も、この国に入ると、みんなグダグダになって、日本化してしまう」「外側からやってきた文化を受け入れて、やがて彼我の差をなくしてしまうのが、日本文化の特性だ」と述べている。「鑑真和上と戒律のあゆみ」展でもそのことがよく理解できた。では、なぜそうなったのか。
 小金丸師は「宗教の時間」のテキストで、「仏の深い境地を人間社会の現実から離れた理想郷のように思う人もあり、また、真実と現実が対極のものであるかのように考える人もありますが、現実と真実を分けないで、現実の中にこそ真実を見出すべきであって、現実を捨てて真実を求めることは宗教ではありません。また、自己の外に真理を見つけることも意味がありません。矛盾していると思える現実の中に真実があるからです」と述べている。仏教受容に際し、聖徳太子が在家の経を選び『三経義疏』を著した時代から、その傾向は今に続いている。
 ロシア革命の「ナロードニキ(人民のもとへ)」ではないが、常に大衆を意識し、発展してきたのが日本の仏教であり宗教・思想である。背景には、縄文時代の狩猟採取、弥生時代の稲作によって培われてきた「平等に働く」という日本社会のあり方がある。古代から日本の男女は対等に働いてきたのである。ことさら西洋から指摘されることではない。
 もっとも大衆志向は、常に堕落の危険を宿している。そのため、時代の節目節目に釈迦に返れ、インド・中国に返れの原点回帰運動が、自然発生的に起こってきた。上野教授によると、万葉集も中国の漢字文化への回帰と捉えないと本質は理解できないという。それこそが、日本文化のレジリエンスであろう。そのためには国境も軽々と超える。もともと偏狭なナショナリズムなどそぐわないのである。
 「戒律あゆみ」展を見ながら、コロナ禍の戒律とは何か考えてみた。その一つはマスク。スーパーコンピュータでマスクの感染防止効果を実証したのは、いかにも科学技術の時代。煩わしく感じていたのを反省し、これからはファッションとして楽しもうと思う。
 いい点はリモートワーク。モニターでの会話で、情報にプラス感情を交換するノウハウが蓄積されている。時には、面と向かって話す以上に効果的なこともある。
 何より自分の生活圏で過ごす時間が増えたのはありがたい。地域のために思う存分働くことができるようになった。振り返ってみると、コロナ禍は日本いや世界の大きな転換点になったと言える日が来るだろう。
 慈雲尊者の言葉に「人は人となるべし、この人となり得て、神ともなり仏ともなる」がある。小金丸師は「釈尊も人として生まれ、そして人として仏となられたのです。人の道を忘れて仏の道を進むことはできません。つまり、人としての行いを全うして仏となるのです。この条理を明らかにした代表的名著が『十善法語』なのです」と解説する。

原恩主義の日本的宗教
 上野教授は、日本人の心性を「原恩主義」とし、一神教の「原罪主義」と対照している。今ある自然、自分、地域を、災害も含めて大いなるものからの恩と受け止め、そこで生かされる自分として誠を尽くすのが日本人の生き方であった。災害も共同体の罪と感じ、それを祓う修行を自分に課すのが日本的宗教の原点にある。そんな日本人の原点に回帰し、新しい時代の倫理を求めたい。