宗教教育と宗教的価値継承の歴史的意義
元武蔵野女子大学教授 杉原誠四郎氏に聞く
日本では、政教分離の表面的な理解から様々な問題が起きてきた。宗教は、生きることに関して現実を超えた巨大な世界から自分を見つめるという意味があり、祭祀としての宗教は人を結びつける役割を果たす。宗教に対する理解と宗教的価値継承について、杉原誠四郎・元武蔵野女子大学教授に聞いた(2月25日、都内で)。(田中孝一)
戦前と戦後の違い
──宗教教育を考える上で、政教分離の問題が関わってくると思います。日本の政教分離の現状と課題について、お考えをお聞かせ下さい。
日本の政教分離について考える際、戦前と戦後の違いを理解する必要があります。
戦前においては、「神道は祭祀であるから宗教ではない」という前提で、信仰の自由を認めました。それによって、国家レベルで政教分離を採用していました。
これに対して戦後は、神道も宗教であるという前提になりました。結果的に個人が祭祀を宗教として見る自由を持ち、個人の信仰の自由をより幅広く認めたと言えます。ですから祭祀も含めて信仰しない宗教の儀式や儀礼への参加を強制されない自由を与えられたことになります。
憲法で宗教を私的なものとして捉えて、信仰の自由の中に置くということは、宗教を個人的なものにするという意味になります。自分の存在の意義を追究することは宗教の最も重要な根源ですから。
ただし、そうなると社会の伝統や文化との関係が問題になります。
例えば、全国各地で神社を中心に季節のお祭りが行われています。その際考えておくべきは、日本国憲法に定められた政教分離は、国家と宗教の敵対的分離ではなく、人間が生きることにおける宗教の価値を十分に認めた上での国家と宗教の分離という友好的分離だということです。
しかし、戦後の国家と宗教の敵対的分離の議論から見ると、憲法上は憲法89条で宗教の組織・団体に支援、援助を拠出してはならないことになります。お祭りでは公道を使用しますが、一宗教法人に公道を貸すことは、表面的には憲法89条に違反することになります。しかし日本国憲法の政教分離は友好的分離でできており、したがって、占領下、戦後日本を統治したGHQ(連合国軍最高司令部)は、祭祀に社会的、公共性という特別の意味を認めて、神社を中心にして行う地域のお祭りを禁止はしませんでした。戦後すぐの政教分離は、本来のあるべき友好的分離で、GHQも一定の良識に基づいて提示していたのです。
ただ、宗教を理解しない行政の立場で、憲法89条の文言だけを形式的に捉えているため問題が起きています。
政教分離を表面的に解釈
例えば2011年の東日本大震災の時、地域の僧侶は地域の人のご遺体の並んでいるところに行って慰霊の行為をしようとすると、政教分離を表面的にしか解釈していないと89条に反するとして、慰霊行為を拒否するという全く無意味な問題が起きるわけです。
あるいは、地震で倒壊した家屋や施設には行政の補助金が出るのに、寺院の墓石が壊れた場合は、宗教だからとして出さないことがあり得るのです。政教分離について文言上の表面的な解釈がなされているわけです。
そういう意味で、「宗教とは何か」という理解が国民全体にとって非常に重要になるわけです。
現象だけで見ると、信仰を持っていない人にとって宗教行為は理解できないものに見えます。例えば、神社で老木に注連縄を付けて「ご神体」として拝する。そのとき、そういう信仰のない人にとってはただの老木で、何の有難みもないでしょう。その信仰に価値を見出さない人から見れば、いわゆる「マインドコントロール」された行為ということになるでしょう。
しかし、宗教というものは、個々の人間が生きるということに関して、目の前に見ている世界を超えた、より大きな巨大な世界から自分を見つめるという根本がある。そのことによって心を洗い、人間的、社会的に正しく成長する支えになります。
言い換えれば、人間が鋭い知性、感性を持っているから、宗教心が芽生えると言えます。
私は、「新しい歴史教科書をつくる会」の中学生用の『新しい公民教科書』に、「宗教とは何か」を書きました。今も書いてあります。中学生に宗教についてここまで掘り下げて教える教科書はありません。
宗教は人間の知能が高く、しかも自分が生きることに関係して、現実を超えた巨大な別の世界から自分を見ているわけです。そういうことを深く理解すると、政教分離の間違った捉え方は起きないはずです。
宗教、信仰を軽視する風潮
2022年7月の安倍晋三元首相の銃撃事件より以前は、宗教を理解しない人でも、宗教に対して慎重に対応しなければならないという雰囲気が社会的にありましたが、事件以降、あまりに傍若無人に宗教、信仰というものを軽視する風潮が社会全体に出てきてしまいました。
世界平和統一家庭連合に対して、文部科学省は被害者と名乗る人の被害報告だけを集めて東京地裁に解散請求をしました。その被害報告が本当にあったことなのか、あったとしても非難すべき不法行為として成り立っているのか、そうした検証を全くしないままに、単に被害だという報告だけでもって解散請求をしました。全く宗教を冒涜した行為です。それ以来、宗教とか信仰というものに、土足でもって立ち入るような雰囲気が芽生えました。
文部科学省が解散命令の請求を行い、宗教法人審議会が法人解散命令について諮問を受けて議論した際、審議会の中には宗教関係者や宗教学者もいたはずなのに、あのように杜撰な解散命令請求を行おうとすることに対して、一言も異論を述べていません。全く嘆かわしいことです。それ以来、土足でもって宗教や信仰を論じる風潮が出ていたように思われます。
例えば「宗教二世」という言葉は、宗教を信仰している家庭の二世という意味としては事実でしょう。しかし「宗教虐待」という言葉は、偏見と宗教への無理解に満ちていて、軽々に使われてしまっています。宗教を理解しない人の言葉だと言わざるを得ません。
おおらかな宗教文化
──日本では、宗教を信仰している人がなかなか見えてこない、あるいは見ないようにしているという気もします。
確かに日本人は自覚的に信仰をしているという人は少ないかもしれない。しかし、日本人は信仰がないと言いながら、なぜ神社が全国に存在し、歴史を重ねて無くなることもなく存在し続けているのか。日本人は宗教行為をなしているにも関わらず、その自覚がないのです。日本ではそれほど「あいまい」でもいいほどに宗教文化がおおらかなのだと言っていいでしょう。強い信仰心を持つ国からは信じられないでしょうが、逆に言えば様々な宗教を受け入れることができるという意味で優れているとも言えます。
宗教は、生きることに関して、現実を超えた巨大な世界から自分を見つめるという意味があります。そして信仰を共にしている人は、それを通じて紐帯ができます。社会的に見ると、祭祀としての宗教が人を結びつける役割を果たしているということです。お祭りなどを通して地域の結束力が高まるのは、その一例でしょう。
世界の歴史には宗教の名において戦争が起きたことがありますが、日本の場合はそれがほとんどありません。聖徳太子の時代に仏教を取り入れたということが、歴史的に大きな決断でした。天皇はもともと神道の祭司です。ですから形式的に言えば、摂政であった聖徳太子は仏教を排除すべき立場でした。しかし、それを取り入れた。日本人は神道と仏教の二つを信じることによって、日本人の思考様式を均衡がとれるようにしたと思います。これを重層信仰(シンクレティズム)と呼びますが、決して悪いものではありません。繰り返しますが、宗教は現実を超えた所から自分や社会を見つめる行いだと言えます。ですから、宗教の意義は誰もが知っておくべきことです。
親が宗教教育を行う自由
──このような時代に、家庭あるいは学校で宗教教育を行う意義については、いかがでしょうか。
国連で採択された自由権規約(『市民的及び政治的権利に関する国際規約』、1966年の国連総会で採択)の中で優れた内容の一つは、子供の教育に関して親が優先権を持つことを謳っていることです(例えば、第18条4)。つまり、親が子供に対して宗教教育をする自由と責任を認めているということです。
もちろん子供が成長して成人になって、独立した人間となった場合は親の信仰を受け継ぐとは限らない。このこと自体は子供の自由が認められなければならないということで当然です。ただし、これを認めることと、子供の幼少期に宗教教育をしてはならないということとは結び付かないのです。
親の宗教教育の自由は、子供が大切な価値を身につけるという点で、完全に認められているということです。それに圧力をかけたりするのは、宗教に対する無理解ということであって、安倍元首相銃撃事件以来、社会的に家庭連合を非難する大きな要因になっているように見えます。土足で宗教や信仰を語るといったことと同じことですが、宗教を大切にするという日本人の心が劣化したのではないかと懸念しています。

生まれながらに宗教を求める心
宗教教育は、子供自身、広い巨大な世界から自分を見つめて正邪の区別など大切な価値を身に付けたりするために、大きな役割を担っています。
他の動物と違い、人間は高度な精神活動の下に、生き方を選びます。その生き方を選ぶのは心においてです。ですから、よりよい人生、よりよい生き方を選ばせるために「心の教育」が不可欠になります。宗教教育はその「心の教育」で、最も中心的な役割を果たすものです。
アメリカの宗教教育研究者ソフィア・ファーズは、著書『宗教教育入門』(1952年)で、「赤ちゃんは、高度な宗教が常に抱いてきた全ての価値の上で最も大切なものへと条件づけられて生まれたものだ」と述べています。ファーズは、人間の心の中に生まれながらに宗教を求める心、宗教的に動く心のあることを説いており、そのために宗教教育が普遍的に必要だと述べています。
このような宗教心を子供の時に正しく導き、育てることで、自我は広い視野を持ち、生きることに対して自信を持って捉えることができ、よりよく充実して自己の人生を見つめるということになります。
「宗教とは何か」を考えさせる
──親世代を含めて社会全体が宗教、あるいは宗教的価値観に対する理解を深めていくことが大切になるということでしょうか。
大切ですね。そのためにも中学校の公民教育などでは、「宗教とは何か」を考えさせることが重要だと思います。
──現場の教員からは、宗教教育に関して公立学校ではやりにくいという声があります。
現状では、特定の宗派教育は私立学校ではできます。一方、公立学校は
特定の宗派宗教に基づく教え方をするのではなく、宗教とは何かという、宗教を外から見て考えさせる内容にしなければなりません。それはやろうと思えばできるわけです。特定の宗派の宗教行事に参加させることはできないけれども、そうした宗教行為を思い起こさせながら、宗教とは何かを考えさせることは公立学校でもできるし、やらなければなりません。
学習指導要領の公民教育に関する記述の中には、宗教という言葉があります。ただ、現場の教員には宗教を取り上げることは大切だという認識は浸透していませんね。
教育基本法の宗教教育の条文は、非常に重要なことが書かれています。そういう意味でも、教室で宗教について考えさせるような教え方をすべきです。
家庭、社会、国が良い意味で一つに
──宗教的価値が次世代に継承されていくことで、より良い社会づくりにもなると思います。先生は道徳教育に宗教が必要であると以前から強調しておられますが、宗教教育が今後の国づくりに与える重要性について、お考えをお聞かせいただけますか。
安倍さんの銃撃事件以来、この数年間、宗教を軽視し、宗教に対する理解もないまま、あるいは偏見を持ったまま土足で踏み込むような風潮が顕著になりました。そして宗教関係者にそれに抵抗しようという気概が出てこない。嘆かわしいことです。
本来は宗教を理解していけば、自ずと寛容の精神も出てきます。そのような精神は宗教を通して学ぶということがあります。このような宗教に対する理解を、子供たちが高校を卒業するまでに教えなければならないと思います。
──以前お話を伺った際、1月1日は正月として人間が決めたものだけれども、新鮮な気持ちになって、新しい年を迎える気持ちになるとおっしゃっていました。
1月1日を正月にする根拠は自然学的にはありません。1年は地球が太陽を一周する時間であり、ぐるぐる回るその軌道の輪は、どこが始まりかは分かりません。それを特定の日に1年の始めだと決めて、1月1日として皆が心を合わせて祝えば正月らしくなる。そして1年の誓いをするわけです。それでも正月が定められることで、社会の紐帯をとても強くしています。このように正月を定めてお祝いしようということにも、宗教性があるわけです。
──その意味では、宗教によって、家庭、社会、国が良い意味で一つになれる可能性があるということですね。
そういうことになりますね。それほど宗教教育は重要だということです。
〈資 料〉
「日本国憲法」第89条
公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない。
「教育基本法」第15条
宗教に関する寛容の態度、宗教に関する一般的な教養及び宗教の社会生活における地位は、教育上尊重されなければならない。
2 国及び地方公共団体が設置する学校は、特定の宗教のための宗教教育その他宗教的活動をしてはならない。
「市民的及び政治的権利に関する国際規約」第18条4
この規約の締約国は父母及び場合により法定保護者が、自己の信念に従って児童の宗教的及び道徳的教育を確保する自由を有することを尊重することを約束する。
すぎはら・せいしろう 元武蔵野女子大学(現武蔵野大学)教授 昭和16年(1941)広島県生まれ。東京大学大学院教育学研究科修士課程修了。城西大学教授、武蔵野女子大学教授を歴任。現在、(一社)国際歴史論戦研究所会長。新しい歴史教科書をつくる会前会長、全国教育問題協議会顧問。教育及び宗教に関わる著書に『新教育基本法の意義と本質』(自由社)、『日本の神道・仏教と政教分離—そして宗教教育』(文化書房博文社)、『理想の政教分離規定と憲法改正』(自由社)がある。


