宗教者の力を教育に活かしてほしい
全教神協常任理事 金子善光宮司に聞く
宗教者は教育にどのように貢献できるのか。全国教育関係神職協議会(全教神協)で常任理事を務める金子善光宮司に聞いた。(田中孝一)

理屈でなく〝体験〟 として伝える
──全教神協について紹介していただけますか。
昭和35年に発足した全教神協は、全国各地の神社に神職として奉仕するかたわら、学校や教育行政機関に勤務する人、勤務経験を有する人で組織されています。我が国の伝統文化に基づく教育普及を目的に、学校現場における研究実践や、地域における社会教育の振興、青少年の健全育成に務めています。
私自身は大学を卒業後、高校と大学で教鞭を執り、神職となりました。この会には10年ほど前から参加しています。皆さん、教育を何とかしなければならないという危機感を共有しています。
全教神協の活動で評価されていいと思うことの一つは、道徳教育への取り組みです。現場の教員の方々は教科化された道徳の教え方に試行錯誤されていると聞きますが、宗教者をもっと活かしていただきたいと思います。宗教者は道徳に関わる話もできますし、子供たちには理屈ではなく〝体験〟として伝えることができると思っています。
私が兼務しているお宮に、小学生が授業の一環でやってきます。その時、高学年の5、6年生には神道の儀式をある程度言葉で説明します。一方、低学年の子たちには、見せて、触れさせます。例えば太鼓を打たせながら、「太鼓を叩くと、これからお祭りが始まるという合図だよ」と教えます。それから、柏手を打ってもらいながら、「柏手を打ったら、お休みになっている神様に、どうぞお目覚め下さいと呼びかける意味もあるんだよ」と話したりします(実は拝礼以前のあいさつの方法)。巫女の神楽で鈴を見せながら、鈴に触れさせたりもします。子供たちはとても喜びますね。また、私はかるたやすごろくを作って神道を紹介しています。
理屈で教えなければならない部分もありますが、日常の中で、忘れられてしまったもの、置き去りにされたものを感じさせることも大切ではないかと思います。
生き方を無理なく語る神職
私は高校教員時代に倫理などを教えたことがあるのですが、古代ギリシャの哲学、中世の哲学だとどうしても理屈を話してしまいやすいのです。そうではなく、生き方の話をするとか、歴史の話をするにしてもそこに込められた人間のエピソードを話す。そのように人が行ったことに触れていくことで、感化力があると思います。司馬遼太郎が坂本竜馬を書いたことで、一気にクローズアップされました。私が子供の時に教えられた歴史では、坂本竜馬はそれほど重要視されていませんでした。
そう考えると、子供たちに生き方を語る必要があると思うのですが、神職の場合はそれを無理なく語ることができます。
例えば、日本では型・形に意味があることが多いのです。ですから、子供たちに話すときは、立ったり座ったりして動作を見せます。大麻(おおぬさ)を振るのは汚れを祓うためだと話します。子供たちはきちんとメモを取っています。また、子供たちは「神主さんは今お辞儀をしたけど、神さまはどこにいますか」というような、率直な質問をします。以前、「神さまは目には見えないけど、おられるよ。空気も目に見えないけど、君たちの周りにあるよね」と答えたところ、「神さまは空気のようなもの」と子供たちはメモしていました。苦笑です。
見学の後の発表会に呼ばれ印象的だったのは、大きな家に木を描いているのです。うまく説明できないけれども、神社に神木があることを表しているのです。理屈でなくても、子供たちは分かってくれていると感じました。
言葉を大切にしてほしい
──國學院大學での最終講義の際、「神職の根本は古典力・国語力です。私はご奉仕の中で、そのことを痛感してきました。ご奉仕のこころを磨くのは言葉です。言葉を大切にする神職を育成するのが私の目標でした」と語っておられます。
教育界が国語の問題をずっと抱えていて、我々はそれを改善しなければらないと訴えてきました。
戦後、歴史的仮名遣いは実質的に除かれました。また漢文や古文が重視されなくなりました。これで日本人の基礎的な学力が落ちたのではないかと思います。
大学での祝詞の講義では、古典と現代語の両方を教えていました。講義の最初に学生たちに私の母の話をしました。母は尋常小学校しか出ていませんが、私が持っていた漢文や古文の教科書をすらすらと読んでいました。一方、今の高校生は外国語を読んでいるような感覚なのです。現代語の感覚はあるけれども、祝詞に使用されるような言葉、古典に対しては総じて意識が低い。学生たちの多くが卒業後は神職に就きますので、そうした言葉を大切にしてほしいという願いをもって講義をしていました。
宗教的雰囲気の感化力
──以前、「戦後は宗教者を教育公務員たりえなくした」と指摘されていますが、どういうことでしょうか。
通達で兼業が禁止されていることもあり、宗教者が持っている教育の力を活かすのが難しい教育現場の状況があるということです。
確かに公立学校での宗教教育には様々な議論があり、私は私立の宗教系の学校をうらやましいとも思います。私の孫は仏教系の幼稚園に通っていましたが、躾には力を入れていました。もう一人の孫はキリスト教系の中学校で、保護者が履物をそろえるところからお手本を示すような学校でした。学校が教えるからという以上に、親子が自然にそのような方向に向いているのではないかと思いました。
やはり宗教的な雰囲気、宗教的情操には、感化力があります。
︱︱宗教や伝統が次の世代に受け継がれるということですね。教えを通して作法が身について自分が磨かれるという面もあると思います。
意識したわけではないのですが、例えば高校の授業で万葉集や古今和歌集を学ぶ際、まず教科書を開く前に歌を作らせていました。子供たちが作った歌は、すべて学校の紀要に掲載しました。卒業しても歌を続けている子もいます。それと、これは予想していなかったのですが、歌を作ると子供たちは自然に歴史的仮名遣いを使えるようになりました。
神社で巫女のアルバイトをして言葉遣いや作法を学んだ子が、就職の面接の時にふるまいを褒められたということもあったようです。そうした伝統を自然に継承できる時代であることが大切なのではないでしょうか。
神社は文化の交差点
──神社が地域で果たしている役割について、お考えをお聞かせ下さい。
普段はそれほど気にとめなくてもいいと思いますが、神社は文化の交差点のような役割を果たしています。どのような集会を開いてもそれほど構えることなく、人が集まることができます。それは単に場を提供しているというだけでなく、安心、心の平安があるからだと思います。神社の月次祭にやってくる人たちも、神社にお参りすることに意味を見出している方が多いですね。私はそれでいいと思います。
お祭りで多くの大人が神輿を担いでいるのを見ても、地域の和合というのでしょうか、皆を渦に巻き込んで一つにするような何かを感じます。
今後目指す方向
──今後目指しておられることについてお願いします。
全教神協は教育の正常化を目指しています。昨年の創立65周年記念全国大会では、皇學館大学の渡邊毅・大和大学の得能弘一両教授に講演していただきました。
渡邊教授は『歴史と道徳︱人物伝教育に着目して』というテーマで、明治維新をはじめ歴史を動かした人物たちの人生を活用した実践を紹介されました。そして、歴史と道徳を繋ぐものが人物伝だと語られました。
得能教授は『岐路に立つ日本︱歴史に学ぶ教育の未来』をテーマに、古代における神道的世界観︱自然を畏れ敬い、祖先を尊び、「浄名正直」の心を持って日々を送る︱という普遍的な価値観が日本人の心を形づくってきたこと。神社における祭祀は祖先を敬い、地域の安寧を祈り、次世代に伝える営みであること。そこに教育の原点があると語られました。
そして、今後の教育の方向として、「『知識の教育』から『徳と志の教育』への転換」、「家庭・地域・学校・神社が連携する教育」などを述べられました。世界に開かれるためには自国の文化と精神に確かな根を下ろしていることだと強調されています。お二人のお話も私たちが目指す方向になると思います。
かねこ・よしみつ 全国教育関係神職協議会(全教神協)常任理事
昭和21年横浜市生まれ。國學院大學大学院文学研究科神道学専攻博士課程(満期退学)。高校教員、國學院大學神道文化学部講師を経て、神奈川県神社庁研修所研修講師を務める。現在、中野島稲荷神社など七神社の宮司を兼務。神道宗教学会監査、現代神社と実務研究会常務理事等を務める。著書に『現代諸祭祝詞大宝典』(共編・国書刊行会)、『祝詞作文法』(神社新報社)、『祝詞作文事典』(編著・戎光祥出版)、『延喜式祝詞の研究』(大河書房)、『神道事始め』(北樹出版)、『神社神道講話』(神社新報社)他。


