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[2019年4月10日付 灯]

 「時間になったので、イエスは食卓につかれ、使徒たちも共に席についた。イエスは彼らに言われた、『わたしは苦しみを受ける前に、あなたがたとこの過越の食事をしようと、切に望んでいた…』。…またパンを取り、感謝してこれをさき、弟子たちに与えて言われた、『これは、あなたがたのために与えるわたしのからだである。わたしを記念するため、このように行いなさい』。食事ののち、杯も同じ様にして言われた、『この杯は、あなたがたのために流すわたしの血で立てられる新しい契約である。』」(ルカ22・14─20)
 西方キリスト教の暦では4月14日から聖週間に入り、キリストの受難と死と復活を記念する。イエスは捕えられる前夜、弟子たちと共に食卓を囲み、パンと葡萄酒を祝して与えた。これを、キリストの御体と御血として、再び来られる日までの信じる者たちの生命の糧とした。主の来臨を待ち望むキリスト者は、主と共に再び食卓を囲む日を待ち望んでいる。その日は「小羊の婚宴」の時、喜びの一日となるはずである。

[2019年3月10日付 灯]

 「わたしの先祖は、さすらいの一アラムびとでありましたが、わずかの人を連れてエジプトへ下って行って、その所に寄留し、ついにそこで大きく、強い、人数の多い国民になりました。ところがエジプトびとはわれわれをしえたげ、また悩まして、つらい労役を負わせましたが、われわれが先祖たちの神、主に叫んだので、主はわれわれの声を聞き、われわれの悩みと、骨折りと、しえたげとを顧み、主は強い手と、伸べた腕と、大いなる恐るべき事と、しるしと、不思議とをもって、われわれをエジプトから導き出し、われわれをこの所へ連れてきて、乳と蜜の流れるこの地をわれわれに賜わりました。」(申命記26・5‐9)
 イスラエル民族はエジプトの奴隷のくびきから解放され、40年の荒野の道を越えてカナンに入植する。カナンに定着した後には、収穫祭でこのように祈れと教えられていた。そこに、彼らの信仰告白が聞こえてくる。「天地の創り主は、人類の救い主であった」という確信が顕わになる。

[2019年2月10日付 灯]

 「わたしは、高く天にある御座に主が座しておられるのを見た。衣の裾は神殿いっぱいに広がっていた。上の方にはセラフィムがいた。彼らは互いに呼び交わし、唱えた。『聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う。』
 するとセラフィムのひとりが、わたしのところに飛んで来た。そのとき、わたしは主の御声を聞いた。『誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか。』わたしは言った。『わたしがここにおります。わたしを遣わしてください。』」(イザヤ6:1─8)
 聖書に登場するイスラエル民族は、ひとたびは王国を建て平和と繁栄を享受したが、その後は、南北に分裂し、困難を極めた。外国からの侵略にも苦しめられた。しかし、危機に陥る民に、創造主は一人の人物を預言者として召し、民にそのメッセージを伝えた。創造主に立ち返り「神の民」としての自覚を取り戻し、主なる神との絆をしっかりと結んでこそ国家の危機を乗り越え、平和と幸福が回復されることを示した。
 イザヤもその一人。従順かつ大胆に神の呼びかけに応えたのだ。

[2018年12月10日付 灯]

 「エルサレムよ、悲しみと不幸の衣を脱ぎ、神から与えられる栄光で永遠に飾れ。神から与えられる義の衣を身にまとい、頭に永遠なる者の栄光の冠をつけよ。
 神は天の下のすべての地にお前の輝きを示される。
 お前は神から『義の平和、敬神の栄光』と呼ばれ、その名は永遠に残る。
 エルサレムよ、立ち上がれ、高い山に立って東の方に目を向けよ。
 お前の子らは、神が覚えていてくださったことを喜び、西からも東からも聖なる者の言葉によって集められる。」(バルク5:1─5)
 西方キリスト教の暦はいち早く季節に入った。アドベントは、主の降誕を待ち望むとともに、イエスが約束された再臨の時をも待ち望みながら準備をする時でもある。そこで思い起こされるのが、捕囚期の預言者のことば。かつてイスラエル民族が苦難で天の声を上げた時、主はその御手をもって神の都へと導いた。混沌の世から神の下の一つの世界へと移り行く希望を失うことなく、歩み続ける神の民。その営みが人類の希望の燈火となればと願う。

[2018年11月10日付 灯]

 ─ひとりの律法学者がきて、彼らが互に論じ合っているのを聞き、またイエスが巧みに答えられたのを認めて、イエスに質問した、「すべてのいましめの中で、どれが第一のものですか』。イエスは答えられた、「第一のいましめはこれである、『イスラエルよ、聞け。主なるわたしたちの神は、ただひとりの主である。心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。第二はこれである、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。これより大事ないましめは、ほかにない。(マルコ12:28‐31)─
 イエスと律法学者の論争の中で、当時のユダヤの聖書に記された最も重要な教えが明示される。「主なるあなたの神を愛せよ」のことばは、申命記に「寝ても覚めても、口に上らせて覚えよ」と言われてきたことなので、彼らがよく知る一節に他ならない。問題は、日々の生活においてこれを実行できるのかが課題となる。問われて即座に応えるイエスに、いかなる時も迷いなく父なる神を愛することができる子の姿を見る。

[2018年10月10日付 灯]

「主なる神は言われた。『人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。』
 主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。主なる神が彼女を人のところへ連れて来られると、人は言った。
 『ついに、これこそわたしの骨の骨、わたしの肉の肉。これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう、まさに、男(イシュ)から取られたものだから。』
 こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。」(創世記2・18、21─24)
 聖書のはじめに記された創造の物語は、すべてのものの根源が創造主であると明言する。その方が人類始祖の結婚を祝し、私たちの生命の源である家庭を形作られ、愛を育むように計画されたのだと言う。それが人間本来の姿なのだ。愛と憎しみの交叉する現代社会の問題を根本から解決に導くためには、本来の理想に立ち返る必要があるのではないだろうか。

[2018年9月10日付 灯]

 「神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、聖霊により、贖いの日に対して保証されているのです。無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪意と一緒に捨てなさい。互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。
 あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい。キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとして、わたしたちのために神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい。」
(エフェソの信徒への手紙4・30─5・2)
 キリスト者の生き方を正し励ます使徒のことばは、信仰生活の本質に触れる。悪意を捨てて哀れみの心でゆるし合うこと。これはキリストに倣い、神に愛される子供にふさわしく、神の似姿として完成すべく人生を歩み続けること。そのような人の人生は、おのずから神と人とのために捧げられたものとなろう。

[2018年8月5、20日付 灯]

 「わたしたちの主イエス・キリストの力に満ちた来臨を知らせるのに、わたしたちは巧みな作り話を用いたわけではありません。わたしたちは、キリストの威光を目撃したのです。荘厳な栄光の中から、『これはわたしの愛する子。わたしの心に適う者』というような声があって、主イエスは父である神から誉れと栄光をお受けになりました。わたしたちは、聖なる山にイエスといたとき、天から響いてきたこの声を聞いたのです。こうして、わたしたちには、預言の言葉はいっそう確かなものとなっています。」(ペトロの手紙二・1・16─19)
 イエスの弟子たちは、長く生活を共にしながらも、師の本当の価値を知らなかった。変貌山でその威光を見ながらも理解できなかった。イエスは神が愛する尊い存在、神の心を示す存在であった。もし、弟子たちの一人でもそのことに気づいていたら、十字架を担ぐイエスを見捨てただろうか。見捨てられてもなお、怨みを抱かず自らを捧げたイエスは復活された。その後初めて目覚める弟子たちだった。

[2018年7月20日付 灯]

 「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。
 キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。」(エペソの信徒への手紙2・14─18)
 イエスは、人々から憎まれ疎まれ、信じ従う者が誰一人いなくなっても、敵対する者に憎しみを抱かず、神の愛の体現者であり続けた。裏切った弟子たちも、復活されたイエスによってゆるされた。この方が示された愛に立ち返り、その模範に倣うならば「平和」は川の如く豊かに流れると、彼らは信じた。

[2018年7月5日付 灯]

「海に通ってみれば、本当に学ぶことがたくさんあります。一日に何度も変化します。世の中では『人心は朝夕に変わる』と言いますが、海は、朝夕ではなく時間ごとです。時間ごとに変わるのです。じっと見てみれば、いくら天候が良い時でも、ある場所では風がないのですが、他の場所に行くと風が吹くのです。強い風ではありませんが、すべて異なるのです。人の顔が異なるのと同じです。水があって山があれば、山の高低によって気候が変わります。海は千態万象の妙味をもっているのです。
 自然の力は偉大です。ですから、海を愛する人は、驕慢になることができません」(Rev. Moon)
 海開きを前に、関東地方は例年になく早い梅雨明けを迎えた。海の神秘と脅威を味わう機会も多くなる。人間の力の及ばない、生死を超越した奥深い世界に接すると、おのずから祈りの気持ちがわいてくる。その世界を創造され、私たちに愛と生命を与えられた方の前に謙虚に頭を垂れるところから、新しい文化が芽生えてくるのかもしれない。

 


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