民間に伝わる高向玄理の数奇な運命

連載・京都宗教散歩(45)
ジャーナリスト 竹谷文男

対立する唐と交渉、受難の道へ


大阪府河内長野市高向に建つ高向神社

 高向玄理(たかむくのくろまろ)は608年、聖徳太子によって隋への留学を命じられ、遣隋使小野妹子に同行して渡り、長い研鑽の後640年に帰国した。645年に起きた乙巳の変(大化改新)の後、国博士(くにつはかせ)に任じられて、中大兄皇子(後の天智天皇)のもとで内政に外交に最高顧問として活躍した。
 翌646年、玄理は遣新羅使として新羅に派遣され、その翌年、新羅王子・金春秋(後の武烈王)を人質の名目で伴って帰国した。
 しかし、金春秋は翌648年、新羅に帰国して即位すると、百済との対立から唐に接近し、同年、唐の第2代皇帝太宗に謁見した。これに対して、日本は654年、玄理を遣唐使押使として唐に派遣し、玄理は第3代高宗に謁見したが、ほどなく唐で客死したという(『日本書紀』)。玄理の努力も空しく、660年、百済は唐・新羅連合軍に滅ぼされた。
 滅んだ百済の王族は日本に助けを求めたため天智天皇は663年、2万7千人の軍勢を百済に送り込んだ。しかし、唐・新羅連合軍は、日本・百済連合軍を白村江(はくすきのえ、現・錦江)で破り、百済や伽耶の王族の多くは日本に亡命して住みついた。
 このようにアジアが激変する時代に唐に渡って和平のために交渉し、果たせずして唐で客死した玄理について、正史は詳しく伝えてはいないが、民間には驚くべき伝承が残されている。
 玄理は、唐で奴隷の身分に落とされ、全身に鬼の入れ墨を施されて、灯りを頭の上に置く〝人間燭台〟即ち「燈台鬼」に貶められて絶望の日々を送っていたが、探しに来た息子によって救い出されたという。これは、平安末期の武士・平康頼(やすより)が出家して双林寺(京都市東山区)で著した仏教説話『宝物(ほうぶつ)集』に、「軽の大臣、高向玄理の受難」として描かれている。
 また、帰国後の玄理の消息は、奈良県橿原市にある軽寺跡に残され、この地に玄理は軽寺を建てたと寺伝は伝える。『日本書紀』天武朝の686年条項にも、軽寺の名は記されている。下って平安時代、藤原道長は、熊野詣での際に軽寺に泊まったと記した(『御堂関白日記』)。
 では高向玄理は、どの様な人物だったのだろうか。高向氏は、応神朝に阿知王(あちのおみ)と共に渡来した七姓漢人の一つで、魏の文帝(曹丕)の末裔と言われる。また、一説では東漢氏(やまとのあやうじ)とも言われる。あるいは応神朝に弓月君(ゆづきのきみ)に率いられて渡来した氏族とも考えられる。「高向」の名は、河内国錦部郡高向村(現・河内長野市高向(たこう))の地名に由来し、当地には高向神社があり、その北側には「高向王」を葬ったと言われる円墳がある。
 一方、「玄理」という言葉は当時、特別な使われ方をされていた。イエスの死後、東方へと布教を開始した景教(ネストリウス派キリスト教)は、「三位一体(父なる神、子、聖霊が同一本質であること)」の教義を「奥妙な教え」の意味で「玄理」と表現した。唐において景教の流行を記した「大秦景教流行碑」(西安)にも、景教の教えの奥妙さを「玄理」と刻んでいる。また、同碑の建立にたずさわった僧63人のうち3人が、名前に「玄」の字を含めている。

玄理が建てた寺伝が残る軽寺跡(奈良県橿原市大軽町)


 中央アジアに発する弓月君に率いられ、あるいは応神朝に大挙して渡来した人々の中には、多くの景教徒がいたが、その後孫である玄理が景教徒であった可能性は高い。景教徒の持つ国際性や多言語への適応性があったからこそ、30年間の隋唐での留学や、新羅・唐との外交を担えたのだろう。
 玄理は聖徳太子や中大兄皇子と同時代に生き、対立していくアジアを眺めながら平和の道を模索し、あえて新羅や唐との困難な外交を引き受けて渦中に身を置き、運命づけられたかの様に受難の道を選んだのだろうか。

(2026年9月10日付 839号)