合衆国の基本理念となる思想の萌芽

連載・信仰の自由とキリスト教共同体の形成(5)
本紙前代表 石丸志信

ロジャー・ウィリアムズの入植

ロジャー・ウィリアムズ像
『Boston, the Place and the People』Macmillan & co., limited Author(s): M. A. De Wolfe Howe (Mark Antony DeWolfe Howe) Publication Date: 1903


 監督ジョン・ウィンスロップと盟友ジョン・コットン牧師が共に作り上げた「丘の上の町」理想は、ニューイングランド方式の神聖政治体制の「同質的閉鎖的な共同体」という形を持った。これがマサチューセッツ湾岸植民地の正統となった。
 そこに、ピューリタンの理想を抱き、この正統に異論を唱えるもう一人の人物が入植してきた。その男、ロジャー・ウィリアムズは、1631年2月にボストンに到着。第一教会の牧師に招請されたが、これを拒否、彼に代わって牧師に就任したのがジョン・コットンだった。
 ロジャー・ウィリアムズは国教会の不徹底な改革に反対し、良心の自由を求めて本国を離れた。信仰においては分離派の立場を堅持し、国教会との関係を保持する非分離派の教会に奉職することを拒んだのだった。一方、プリマス植民地は分離派の信仰を保持していたので、彼はその地で牧師として2年間奉仕した。その後、セイラムに移ったが、そこでマサチューセッツ自治政府に対する批判的意見を公に述べるようになった。
 彼の主張は主に二点あった。入植者が王の特許状をもって先住民の土地を獲得するのは、先住民の権利を侵害しているのではないかという指摘、もう一つは、一般居住民に対して聖書を用いた宣誓を行うことについて、信仰のあいまいな者に誓わせるのは政治の宗教への不当な干渉だとの見解による批判だった。彼の中には、今日のアメリカ合衆国の基本理念となる思想の萌芽が見られる。先住民固有の文化に敬意を払い、各々の良心の自由、信仰の自由を尊重し、それに対する政治の干渉を避けるための政教分離の原則だが、それはやがて確立されていく。
 しかし、当時のマサチューセッツ湾岸植民地においては、彼の言動は、共同体の根幹を揺るがす急進的な危険思想とみなされ、1635年秋に追放の決定が下された。しかも植民地内に一歩でも足を踏み入れたら死刑を免れ得ない立場に立たされたのだ。
 ニューイングランドを追われたロジャー・ウィリアムズは数名の同志と共に南下し、ロードアイランドの先住民から土地を購入した。後に、国王の特許状を取得し、新たな植民地を開くことになるが、彼はその地をプロビデンス(神の摂理)と名付けた。

ジョン・コットンとの論争 

 マサチューセッツ湾岸植民地の精神的権威であり、ロジャー・ウィリアムズを追放にまで追いやったジョン・コットンとの間には、同じピューリタニズムの理想を抱いた神学者であったにも関わらず、激烈な論争が繰り広げられた。
 国教会とのかかわりにおいては非分離派と分離派という立場の違いが二人にはあった。さらに、神学的な面で見ると基本的な信仰理解に於いていくつかの相違がみられたと研究者は指摘している。これまでの学術研究を踏まえた結論として、「二人の論争の根底には、予定論と千年王国思想との二つの要素があり、それぞれの理解に二人の決定的な違いがあった」(大西直樹著 『ニューイングランドの宗教と社会』 彩流社 1997年 P・22)と著者は述べる。
 その点を要約すると、ジョン・コットンは、ニューイングランドの聖徒こそが旧約のイスラエルに連なる選民であり、彼らが形成する共同体が選民国家、預言に示された新しいエルサレムだと受け止めていた。また、キリスト再臨を迎えるべき千年王国の始まりを彼らの時代17世紀とみなし、その切迫感から、直ちに神との契約に入るべきだと植民地の民を導いた。
 それに対して、ロジャー・ウィリアムズは、キリスト教共同体はイスラエルの延長にはなく、旧約のイスラエル国家に原型をとる政治体制ではない。イエスの復活以後は、それらは象徴的な意味しか持たず、あくまでも精神的王国とみた。千年王国の始まりの時期を特定できるものではなく、来るべき時には、新たな使徒たちが真の教会建設を成すもので、彼自身は、その時に備えて教会の純粋性を保っておきたいという動機だったのではないかという。信仰に基づく共同体の基本理念や政治思想は、このような熾烈な議論と犠牲を伴いながら、歴史をかけて精錬されていくことになる。

(2026年9月10日付 839号)