湊川神社 忠孝巡礼の旅/神戸市

人々を魅了し続けた楠公さん


講演会の様子=8月19日、湊川神社の楠公会館

 神戸市中央区にある湊川神社は1336年、湊川の地で足利尊氏と戦い(湊川の合戦)殉節した楠木正成公を主祭神として、明治天皇の命で明治2年(1869)、尊氏公の墓所・殉節地に創建された。8月19日、兵庫歴史愛好会の主催で「湊川神社 忠孝巡礼の旅」が開かれ、同社楠公会館で鈴木智子湊川神社広報室長が「人々を魅了し続けた楠公さん」と題し講演した。以下、要約。

 楠木正成公の足跡と歴史的事実
 楠木正成公は、後醍醐天皇の倒幕の志に応えて歴史の表舞台に登場した。千早赤坂合戦での巧妙な籠城作戦や情報網の駆使により幕府軍を翻弄し、鎌倉幕府打倒の契機を作った。その勝因は単なる戦術の巧みさだけでなく、地元の民や他武将の心を掌握する人間的魅力にあった。
 その後、足利尊氏の反逆により迎えた延元元年(1336)の湊川の合戦では、多勢に無勢の中で最期まで戦い抜き、「七生滅賊(何度生まれ変わっても本懐を遂げる)」の誓いと共に自刃した。
 また、正成公は敵味方を問わず供養する「寄手塚」を建立し、息子の正行公も救命した敵兵を看病して帰すなど、深い慈愛の心(赤十字精神の源流)を体現した武将でもあった。

 死後の崇敬と志士たちへの影響
 正成公の生き様は死後も強い影響力を保ち続けた。『太平記』や敵側が記した『梅松論』でもその忠誠と智勇が絶賛され、太閤検地での墓所判明を経て、徳川光圀公による墓碑建設へと繋がった。
 江戸時代には文楽や講談の定番「楠公モノ」として庶民のヒーローとなり、大石内蔵助の討ち入りも正成公の生まれ変わりと噂された。幕末になると、水戸学や崎門学を通じ、「国体」を学んだ吉田松陰、坂本龍馬、西郷隆盛ら志士たちがその墓前に集い、涙を流した。
 彼らは自らを正成公の再来と信じ、「正成一人(自分一人が生きていれば天運は開ける)」という覚悟を旨に、国家の危機を打開すべく奔走した。この精神は近代の英霊たちにも継承されていく。

 楠公精神の本質と建武中興の真義
 正成公が命を懸けて護ろうとしたものの真義は、後醍醐天皇が目指した「建武中興」にある。後醍醐天皇の親政は私利私欲や単なる新政ではなく、後三条天皇や後鳥羽上皇の志を継ぎ、臣下の増長を排して古来の「天皇親政(王政復古)」へ立ち返る試みであった。
 天皇と臣民が「君臣一体・忠孝一致」の家族的な絆で結ばれ、民を宝(大御宝)と慈しむ「無私と慈悲の政治」こそが日本の本来の国柄(歴史の連続性)である。
 正成公と後醍醐天皇は、支配・被支配の関係を超え、共にこの理念と日本の平和を愛し、命を注ぎ込んだ。我々も先人が守り抜いた歴史と真心に感謝し、誇りを持って歩むことが世界平和へとつながる。