聖徳太子の国造りに学ぶ
宗教和合のグローバル文化を
「飛鳥・藤原の宮都」がユネスコ世界文化遺産に登録された頃、私は梅原猛の『聖徳太子』(全4巻、集英社文庫)を読み終えていて、不思議な縁を感じた。同書は、聖徳太子こそ日本国家の基礎をなす律令体制を築いた人で、仏教精神による国造りを目指した愛国者であり、同時に隋との交流を進めた国際主義者であるとの観点に貫かれている。まさに太子は「日本の国柄」を築いた人物だという。現代の視点から、太子の国造りの意味を考えてみた。(向田順一)
仏教的文化国家

蘇我馬子の家で育ち、熱心な仏教信者に育った聖徳太子は、長じて高句麗の僧慧慈から仏教を学んだ。当時の政権は、推古天皇と摂政の聖徳太子、実力者の蘇我馬子のトロイカ体制である。三人には仏教を信奉する共通の精神的支柱があり、仏教的理想主義の太子と、仏教を推進しつつも現実主義の馬子が、主に祭祀を担う推古を支えた、というのが梅原の見立てである。
16歳の太子(厩戸皇子)は蘇我・物部戦争で、仏教推進派の蘇我軍が排仏派の物部軍の攻撃で退くのを見て「我をして敵に勝たしめたまわば、必ず護世四王の御ために、寺を建てむ」と誓願した。戦勝後の593年、太子によって瀬戸内海を臨む今の大阪に建立されたのが、日本最古の本格的な仏教寺院、四天王寺である。
太子は推古に『勝鬘経』『維摩経』『法華経』を講義し、これらの注釈書が日本最初の仏教解説書『三教義疏』である。特に太子は『法華経』の一乗思想が国造りに最も有効だと考えていた。上座部仏教(小乗仏教)は仏の教えを聞いて悟る「声聞乗」と独力で悟る「縁覚乗」の二つ、つまり二乗であるのに対して、日本に渡来した大乗仏教には全ての人々の救済を目指す「菩薩乗」があり、この三つの教えを統一しようとするのが『法華経』の一乗思想である。
奈良仏教では、本当に悟りを開くことができるのはエリートに限られていたが、一乗思想では、全ての人に仏性があり、人は全て平等に扱われるべきだとする。太子の一乗思想は平安時代の最澄に受け継がれ、動物や植物、鉱物にも仏性があるという、日本的風土を反映した「山川草木悉皆成仏」の本覚思想を生んだ。
宗教和合の精神
聖徳太子は宗教和合の先駆者と言えよう。その精神が端的に現れているのが日本初の法「十七条憲法」で、後の多くの法の基礎となった。第一条は有名な「和をもって貴しとなす」で、第二条が「篤く三宝(仏・法・僧)を敬え」。仏教による国造りを目指していた太子の本音が第二条であることは明らかである。当時、日本には多くの氏族がいて、彼らは様々な宗教、思想を信奉していた。古来の神祇(神道)や渡来の儒教、道教などである。
太子が目指したのは「天皇を中心とする統一国家」で、それには和の精神が最も大切だと考えていた。「和」は儒教の「仁」に通じるが、「和」のほうがより包括的である。仏教重視の太子は徳のトップに「仁」ではなく「和」を置きながら、宮中祭祀を中心とする神道や儒教、道教も尊重するという姿勢を表明していた。
「十七条憲法」に先立って制定したのが「冠位十二階」で、貴族が掌握していた政治権力を打破する狙いがあった。ここにも太子の仏教精神が現れている。人はその出自ではなく、能力や人格で評価されるべきであるという考えで、人々を身分制から解き放つ仏教の四民平等の精神であろう。氏族連合から憲法に基づき統治される官僚制統治に変える改革で、これにより日本の国柄が決まったと言えよう。
推古は日本初の女性天皇で、飛鳥京から藤原京、平城京に至る時代には、次々と女性天皇が現れた。推古、皇極(重祚して斉明)、持統、元明、元正、孝謙(重祚して称徳)と6人8代の女帝がいて、在位の長さも男帝と相半ばである。この時代にこそ、日本国の基礎体制ができた、と梅原は語っている。天皇制や律令制が固まり、天皇を政治に直接かかわらない象徴的な地位に置いた結果、日本は革命のない平和な国家となったという。太子は推古を支えることで、その先鞭をつけたのである。
太子が講義した『勝鬘経』は、在家の勝鬘夫人を通して釈迦の教えを説く経典で、女帝である推古のために説いたと考えられる。仏教は女性を蔑視する傾向があり、古代仏教には、女性は男性に生まれ変わって成仏できるという「変成男子」の教えがあったほどだが、『勝鬘経』は女性の価値を積極的に認めている。
『魏志倭人伝』には、弥生時代末期の混乱を治めるため人々は卑弥呼を王に選び、それにより倭国に平和が戻ったと記されている。日本では精神性の高い女性がトップであったほうが、たとえ実権を持たなくても、統治が容易になるのかもしれない。天皇家の皇祖神を女性神の天照大神にしたのも奈良時代であった。

開かれた愛国心
太子は愛国心に溢れた政治家で、仏教文化を取り入れ、冠位十二階や十七条憲法を制定したのも、日本を東アジアの国際標準の国とするためだった。600年に派遣された第一回の遣隋使は、隋の高祖(文帝)から日本の政治の仕組みをたしなめられた。その7年後に派遣された第二回遣隋使で小野妹子は、「日出づるところの天子、書を日没するところの天子に致す」と記された国書を隋の煬帝に渡した。国威発揚の瞬間である。
しかし、太子は狭い意味での愛国者ではなく、上記国書の文言は、仏教経典に基づき、菩薩王としての対等な関係を示すものであった。そもそも隋に使節を派遣したのも、先進文明を移入するためで、隋からの学びが日本を理想の国にする近道と考えていた。
太子の仏教の師は高句麗の慧慈で、彼は僧であると同時に高句麗王の外交使節でもあった。さらに儒教の師は百済の覚哿で、太子の目は常に大陸に向けられていた。このように外国人を師とする例は、古代では太子のほかにほとんどなかったと梅原は言う。
太子の時代、蘇我馬子による崇峻天皇暗殺が起きた。馬子の独裁に不満を抱いた崇峻帝が馬子を排除しようとしたので、先手を打って暗殺に及び、代わりに擁立したのが姪の推古であった。国家の危機にかじ取りを任せられたのが推古と太子で、推古が祭事を、太子が政治を担い、それを馬子が補佐した。トロイカ体制は比較的うまく機能し、推古の在位は35年の長期に及んだ、と梅原は言う。
理想を失った現代に必要なものは、太子が目指したような共通の価値観ではなかろうか。それはグローバルな価値観に違いない。グローバルな問題はグローバルに解決しなければならない。ところが多くの宗教は、そこから外れているように思われる。
諸宗教は、違いよりも共通項の方がはるかに多いはずだ。たとえば、世界平和の理想はどの宗教にも共通し、愛の教えは、慈悲や仁など表現の差はあっても意味は同じ。諸宗教は、目的と本質においてほぼ共通している。和合の精神で国造りに取り組んだ聖徳太子の時代に、今の日本が学ぶことは決して少なくない。


