普遍的価値観が根拠を失った現代社会─宗教的価値観と共同体再興が鍵に

評論家 三浦小太郎氏インタビュー

三浦小太郎氏

 世界で「分断」が指摘され、日本国内でも様々な形で混乱がある。思想・哲学、宗教の観点から現在の課題と今後の方向性について、三浦小太郎氏に聞いた。(田中孝一)

「自由」「人権」「平等」が根拠を失いつつある
 ──「社会の分断」とよく言われます。どう考えられますか。
 「社会の分断」、もっと言えば価値観の「分断」や「混迷」は確かにあるでしょう。正確には、社会を支えていたはずの普遍的価値観が特に先進国においては崩壊しつつあるということでしょうね。
 近代以後、特にフランス革命以後に、普遍的価値観とみなされてきた「自由」「人権」「平等」「民主主義」「ヒューマニズム」といった価値観が、現代社会においてその根拠を失いつつあるのです。
 米国やヨーロッパで起きている分断や政治的混迷は、否定的に見る左派・リベラル派的な立場からは、右派ポピュリズムや差別排外主義の勃興、一定程度評価する側からは、一部行き過ぎはあっても、社会秩序の安定や国家の再建と映るのでしょう。しかし、本質的に起きているのは、これまでの近代的価値観を守り抜こうという人たちと、それではもはや国家や社会は成り立たないと考える人たちとの価値観の衝突です。
 ──「自由」や「人権」「平等」をどう捉えるかですね。
 自由は基本的に良いものである、個人を様々な束縛から解放することは、確かに危険性もあるが、基本的に正しいと考える。これが近代的価値観の原点です。人間個々人の実存とは、伝統や信仰、歴史、国家や民族といった概念より上にある。しかし、前近代においては、キリスト教をはじめとする社会制度としての信仰共同体、絶対君主や貴族の主導する国家体制に人間は従属して生きてきました。これらの束縛から解放され、個人の精神の自由、政治的には民主主義、経済的には合理的な資本主義で再構成しなければいけない。極端な言い方ではありますが、これが啓蒙思想からフランス革命を経て人々が選び取った価値観です。
 確かに、それまで人間が様々な制度に抑圧され、政治的な自由もない隷属状態に置かれてきたため、そこからの解放は激しい感動と意識の拡大を人間に与え、偉大な文学や思想、また芸術作品が生まれました。その意味では社会を進歩させたと思います。
 しかし、近代の価値観を究極まで突き詰めていくと、人間は全ての〝束縛〟から解放されなければならない。国家、財産、民族、そして宗教からも解放されなければならないということになります。この近代的価値観を最も純粋に推し進めたのはマルクスの革命思想です。マルクスは、近代国家の資本主義体制下において、人間は経済システムに支配され、階級に分断され搾取される、これを解決するためには革命しかない、既存の近代社会システムは決して真の意味での自由も平等も実現しないと訴えました。理論的には魅力的だったからこそ、あれだけ世界の知識人や運動家に影響を与えた。しかし歴史が明らかにしたことは、徹底的な革命と解放を求め、すべての抑圧を打倒しようとした共産主義体制ほど、自由のない全体主義体制はなかったということです。
 これはパラドックスです。自由と解放を求め続ければ、逆に究極的には自由を失うことになる。
 
キリスト教道徳を中心にした地域共同体
 これについて明確に理論化している一人が、米国の新しいカトリシズム思想家のパトリック・デニーンという知識人です。デニーン氏は「リベラリズムは、成功したからこそ崩壊した」と指摘しています。
 一言で言えば、リベラリズムは個人の自由を拡大していく思想である。すると当然のことながら、あらゆる共同体は基本弱体化していきます。地域社会も、家族も、ばらばらになっていきます。最後には共同体が社会から崩壊していきます。
 しかし、国家という共同体まで解体してしまっては、安全保障もできなくなり、経済政策も福祉も成り立たず、犯罪を取り締まる警察まで失われ、それでは個人の自由も守れなくなる。ですから、ばらばらになった個人を上から統制し秩序を維持する強い力が必要となり、結果的に独裁者や強権支配が誕生するのだとデニーン氏は考えました。
 デニーン氏によれば、その意味で今の米国に必要なのは何よりもキリスト教道徳を中心にした地域共同体の復活です。実はヴァンス副大統領もほとんど同じことを言っていて、ラストベルトといわれる米国の貧困地域の救済のために、教会を中心として地域住民が集まり、相互扶助の精神で個々の問題を自主的に解決することの意義を唱えています。ヴァンス氏がカトリックに改宗したことの意味とかを、日本ではほとんど論じられませんが、これも近代的自由の価値観が米国を荒廃させてしまったことが背景にあるはずです。自身、ラストベルトに生まれたヴァンス氏は、教会を通じて神に出会うという形にしないと、米国では共同体を絶対に復元できないと考えているのでしょう。ちょっと余計なことを言いますが、マルコ・ルビオ国務長官は伝統的な反共カトリックですよね。彼は両親が共産主義キューバから逃れてきて、海外の共産体制には強い反発がある。だから外交面では積極的になる。ヴァンス氏は何よりも国内共同体の再建を求めるので、他国への戦争や干渉には否定的。そういう思想的背景が次の共和党大統領候補選挙では重要だと思いますよ。

日本における宗教的価値観の低下
 ──日本の現状については、どう考えられますか。
 日本においても分断というより、旧来の価値観の崩壊が起きてるんじゃないでしょうか。よく左右の分断といいますが、左派の中でも保守派の中でも、意見の違う同士の対話ができなくなっている、人格誹謗のような罵詈が行われるのは、基本、左派においても保守派においても、それぞれの価値観が崩れているからでしょう。また率直に言って、宗教的価値観がここまで低下したのは日本の歴史上、なかったのではないかと思います。宗教の価値観が崩れていくと、他の価値観は保てなくなります。
 ──宗教の価値観が崩れるというのは?
 例えば、移民の問題とも関係するのですが、イスラム教の人たちは信仰として土葬を求めます。礼拝の場としてモスクが欲しい。それを違法に行ったりするのは絶対許してはなりませんが、それ以前に、イスラム教自体を否定する、彼らの信仰はテロだとか、土葬に拘るのはおかしいということを平気で言う人がいます。正直、他人の信仰に不寛容な日本人が少なくないように思えます。
 確かに私も、イスラムの価値観は理解も共感もしていません。しかし、だからといって、その価値観で生きている人たちを頭から否定するようなことはおかしい。ネット上には確かに過激なイスラムテロリズムやイスラム移民の犯罪など刺激的な映像は上がっていますよ。でも、それだけでイスラムを悪とみなしたら、中国共産党がイスラムであるウイグル人をテロリストとみなし迫害している姿勢と変わらない。

信仰と共同体の意味
 ──日本社会では、信仰を持っている人の顔を見ていないという気もします。
 後、簡単に「信仰は一人ひとりの心の問題」だから、「教会はなくても、個人が静かに一人で祈ればいい」という声もあるでしょう。それを聞いて、日本においては信仰と共同体の意味をほとんど誰も考えなくなったのだと思いました。これだと、今の米国の悩みを理解できないでしょう。
 信仰は一人ですればいい、あるいはわずかな人たちが集まって語り合えばいいというのは、教会を否定する考え方です。確かに、無教会主義やプロテスタントの思想を突き詰めればこのような考えはあり得ますが、教会を共同体とみる伝統的なキリスト教は根本的に否定されることになります。
 人間も共同体も、宗教という言葉が嫌ならば、人間の利害を超えた価値観、共同体を根本的に支えるモラルに根差さなければ、共同体も国家も根本的なところで解体していくと思います。他宗教に対し軽々しく否定する国民は、自分の民族の伝統や信仰もいずれ軽く見るようになりますよ。
 ──日本人は神社や寺院にお参りしたりすることは生活の一部になっています。ただ、実際に信仰という次元で自覚して生活している人は限られているかもしれません。
 日本人は宗教に寛容だとよく言われますが、逆に言えば、宗教に無関心、興味がないという面もあるんじゃないですか。もちろん、江戸時代までならば、日本なりの伝統信仰が寺社を中心に社会の根底をなして安定していたでしょう。しかし、今私たちが生きているのは、近代の民主主義体制です。民主主義というものは、基本的には「神の下の平等」から始まっているわけで、神がいなくなれば、人間が平等である根拠はなくなるわけです。私見ではこれが現代の民主主義の根本問題で、ドストエフスキーが19世紀に予言したことですよ。「神がいなくなればすべてが許される」、つまり、世界が道徳的基準を失うんです。

共同体の価値観の再興
 ──今後の日本が進む道についてはどうでしょうか。
 中国の覇権主義やロシア、北朝鮮の連帯などを観ていると、まず日本国家の防衛システムを再構築しなければならないのは確かだと思います。高市内閣発足以後、例えば国の主権を守るためにスパイ防止法を制定しなければならないといった意識が芽生えてきたことを、私は肯定的に捉えています。
 宗教や価値観という点では、時間がかかるかもしれませんが、価値観が見えない時代に、もう一度、日本なりの信仰を考える、あるいは見出すしかない。国家的な次元の危機の時など、共同体をまとめるものが必要になる時は来ます。共同体の象徴となり得るもの、共同体の価値観の根底となり得るものを再興していくことが、これから絶対に必要になってきます。
 ──日本で共同体を再構築するとすれば、教会、神社、寺院など宗教施設を一つの核にした共同体は可能でしょうか。
 それは信仰者の決意だと思います。そういう意識をはっきりと持てば可能だと思います。
 日本において共同体を再建するのであれば、ある種の職能組合的なものであるとか、あるいは家族であるとか、まずはそうしたことを基底に置かなければならないでしょう。神社界が本気で考えたら、可能性があると私は思います。
 ──最近は政教分離についても議論があります。
 特定の教団と政治を分離するという意味ではいいのでしょうが、現在の日本で言われている政教分離は「宗教的価値観を政治に取り入れてはならない」という考え方です。これは根本的な誤りだと思います。ソルジェニーツィンは、20世紀の西欧は宗教が力を失い、社会が伝統や道徳を喪失し、経済的な豊かさだけが価値とされる社会だと強く批判しています。
 また、西郷隆盛は明治維新の推進者でしたが、同時に、明治政府の近代化に対し、国家が道徳性を失ってはならないと強く主張しています。政府は貿易、商業のためにあるのではない、国の道義、正義を貫くためにある。それを失ったら、政府は単なる商売取引所にしかならない、という意味のこ
とを西郷は述べています。
 宗教的価値観を政治から一切切り離せば、政治外交は、各国の国益との利害調整以上のものにはならない。それでは、国家が正義や価値というものを無視してもいいということになって、突き詰めれば弱肉強食の世界ができるだけです。

信仰なき社会は解体
 ──「日本において伝統信仰に根差した民衆精神」ということをおっしゃっていますが、今後、それを見出していくべきということでしょうか。
 それは前近代にあった価値観で、そのままの形で回復することはできなくても、この近代が行き詰まりを越えて崩壊しつつある今、それを再発見する必要はあると思います。
 そして、これもいま世界中で起きていることですが、敵とみなしたもの、許せないとみなしたものへは、リンチのようなことさえ、SNSでもあるいは社会の現場でも起きています。
 イエスの「おまえたちの中で罪のない者が石を投げるがよい」という言葉、これは宗派を超えて思い起こすべきです。
 キリスト教の原罪思想、すべての人間は罪を背負っているという考え方は、人を裁くということに対して基本的なブレーキになっています。宗教を否定すると、まずこのブレーキが失われます。自分の価値観で他人を裁くことに何の抵抗感もなくなります。そうなると、社会は分断せざるを得ない。ですから私は、信仰なき社会は必ず分断と解体を迎えると考えています。
 寺社や教会に行って何となく心がやすらぐというレベルを超えて、果たして宗教的価値観なくして私たちは社会を維持できるのか、このことを一度考えてみてもいいのではないでしょうか。


 みうら・こたろう 1960年東京都生まれ。90年代から「救え!北朝鮮の民衆/緊急行動ネットワーク」(RENK)東京支部などで北朝鮮の人権問題や脱北者の支援活動に参加。現在、アジア自由民主連帯協議会理事長、新しい歴史教科書をつくる会理事長。保守派の論客として『正論』、『月刊日本』、『表現者』、『月刊Hanada』などに寄稿。著書に、『ドストエフスキーの戦争論』、『漢民族に支配された中国の本質』、『渡辺京二論 隠れた小径を行く』他。