親鸞の信仰と聖徳太子─「和国の教主」と崇拝
親鸞が開いた浄土真宗は阿弥陀如来への一仏信仰として知られ、唯一神のキリスト教との類似が指摘されるゆえんでもある。大乗仏教において阿弥陀如来は無限の光明と寿命を持ち、「極楽浄土」の教主であり、信者が念仏を唱えることで救済されると信じられている。ところが、真宗の寺には阿弥陀如来と親鸞の像に加え聖徳太子の像が祀られ、いわゆる「太子信仰」を伝えている寺が多い。これには親鸞の信仰形成の経緯が大きくかかわっている。親鸞は生涯を通じて聖徳太子を深く崇敬し、太子信仰は浄土真宗の信仰体系や阿弥陀仏信仰と密接に結びついていた。

浄土真宗高田派本山・専修寺(せんじゅじ)(三重県一身田)に伝わる、親鸞が末娘の覚信尼(かくしんに)に与えたとされる文書「三夢記」には、親鸞が聖徳太子から受けた三つの夢告が記録されている。
その第一は親鸞19歳の時、河内国磯長(しなが、太子町)にある聖徳太子の廟に参詣した時のことで、「おまえの寿命はあと10余年しかない。しかし、寿命が終われば直ちに弥陀の浄土に生まれ、菩薩になる」という余命宣告だった。これにより親鸞は29歳まで、比叡山で修行しながら深刻な日々を過ごしたことが推察される。
第二の夢は親鸞28歳の時、比叡山の大乗院で受けたもの。余命宣告の時が近づき、追い詰められた親鸞は、結願の前夜、如意輪観音の化身とされる聖徳太子から、「おまえの後生の一大事が解決できる日は近い」と告げられた。喜んだ親鸞は山を下り、正月10日から聖徳太子が建立した、如意輪観音が本尊の京都の六角堂で百日間の参籠を始めた。
第三の夢はその六角堂でのことで、「前世からの報いで女性を妻とすることがあっても、私が玉のような女性になって添い遂げ、生涯、身の回りを護り、臨終には導いて極楽へ生まれさせよう」というもの。女犯は罪とされる仏道において、性欲の衝動に苦しみ、自らの罪深さを思い知らされていた親鸞にとって、まさに救いだったのだろう。
その間、専修念仏を説く法然の教えに感銘していた親鸞は、百日参籠を終えると比叡山には帰らず、吉水の法然の庵を訪ね、弟子となった。
やがて法然から深く信頼されるようになった親鸞は、法然の命で31歳で妻帯することとなる。その理由は、法然に帰依していた関白九条兼実から、俗人の自分でも救われるのであれば、その証として娘の玉日と弟子を結婚させてほしいと言われたから。法然の言うことであれば、たとえ間違っていても従うと決めていた親鸞は、その命を受け入れ、これが真宗における妻帯の始まりとなった。

日本以外の仏教国では僧侶の妻帯は禁止で、とりわけテーラワーダ仏教(小乗仏教)の僧には、日本の仏教は仏教ではないと批判する人が多い。しかし、全ての人を救うとする大乗仏教では、子女を産む妻帯の禁止は矛盾しており、多くの高僧が隠し妻を持っていた。浄土真宗の妻帯はそれを公にしただけで、まして俗人であった聖徳太子を「和国の教主」と崇拝する親鸞にとって、妻を迎えることは自然の成り行きだろう。
ちなみに聖書では、「罪を犯さないために」として妻帯を認めている。日本では明治5年の太政官布告「これより僧侶の肉食妻帯畜髪等は勝手である」により僧侶の妻帯が政治的に認められた。


