徳島古代史ロマンの旅
白人神社から髙根資料館へ

剣山山頂大祭(参照)の前日、7月16日に古代ユダヤとの関係がうかがえる美馬市の白人(しらひと)神社とつるぎ町の髙根資料館を訪ねた。前者は穴吹川の、後者は貞光川のそばにあり、どちらも剣山系が源流の清流で、吉野川の支流である。
伝承によると、5世紀の仁賢(にんけん)天皇の時代、当地に白髪の老翁が天下り、この地を「宮内」と改めるよう告げたのが白人神社の始まり。時代は下り、保元の乱の後、讃岐に流された崇徳上皇を訪ねた源為朝が、阿波国との境にある相栗峠で弓を引くと、矢が白人神社に落ち、以来、神社の宝物となっている。ちなみに為朝は伊豆大島に流されている。その後、同社は徳島藩家老で脇城主の稲田家に信奉され、慶長年間に再興。面白いことに、狛犬の代わりに狛うさぎがいた。
同社の奥社とされる磐境(いわさか)神明神社が、古代ユダヤの祭祀場と類似した構造をしていることが「日ユ同祖論」者に注目された。普通の社殿ではなく、平たい結晶片岩を積んだ長方形の石垣状の磐境は南北7メートル、東西22メートルで、中に五つの祠が並び、三つある入口の上部は一枚岩が渡され、磐境の周囲は途切れなく岩で囲まれている。地元では「ニニギの尊の御陵」と言われて昔から大切に守っているという。同社を訪れた駐日イスラエル大使のエリアフ・コーへン氏はユダヤとの類似性を認めている。
日ユ同祖論は、明治期に来日したスコットランド人のニコラス・マクラウドが提唱したもので、日本の儀式、年中行事、神社の構造や修験道の服装の酷似性を根拠としている。ちなみに彼は「韓ユ同祖論」も提唱した。

剣山に伝わる「失われたアーク伝説」は、アッシリアの侵攻を受けたイスラエル王国のソロモンの神殿が破壊された時、四散した「失われた十支族」のうち、日本にたどり着いた人たちが、アーク(聖櫃)と財宝を剣山に隠したというもの。モーセ由来のアークには、アロンの杖、マナの壺、十戒の鏡石の「三種の神器」が収められている。
その説を基に、昭和11年から13年まで剣山頂を発掘したのが聖書研究家の髙根正教(まさのり)で、没後、息子の三教(かずのり)が後を継ぎ、二人の没後、研究資料を預かった真言宗地蔵寺の粟飯原興禅(あいはらこうぜん)住職が建てたのが髙根資料館である。コーヘン氏は大使退任後の2009年5月に粟飯原住職と一緒に剣山に登っている。

粟飯原住職によると、髙根正教は聖書の黙示録と四国の関係を言霊学から探究し、剣山の発掘で山頂地下に巨大な玉石、大理石の鏡石、レンガで作られた三重の馬蹄型アーチ、三日月型の大理石などを発見したが、なぜか特高警察に不敬罪だとして検挙、発掘品は没収されたという。
その後も発掘は行われ、昭和27年には坑道の奥でミイラや大理石の壁のホール、階段が発見されたが、昭和39年に剣山が国定公園に指定されてからは行われていない。
大河ドラマ「豊臣兄弟!」で登場した長宗我部元親の長宗我部氏は秦氏の末裔を自称し、剣山の周辺にも秦氏ゆかりの人たちが多い。研究者によれば、秦氏のルーツは北イスラエル王国の十部族の一部が建てた中央アジアの弓月国で、ユダヤ教やネストリウス派キリスト教の影響を受けた可能性があるという。空海は長安でそれらの宗教と接したであろう。
昨年4月に亡くなった美術史家の田中英道は、バビロン捕囚などでディアスポラされたユダヤ人が日本にたどり着いて縄文文化を開き、一神教を捨て神仏習合に同化したと唱えていた。そのため、ほぼ消えてしまったユダヤの痕跡をたどる旅となった。


