「信仰とアイデンティティ」のぶつかり合い

2026年7月10日付 837号 ウィーン・小川敏


戦争、紛争の背景
 21世紀は文字通り人工知能(AI)の時代というべきかもしれない。AIに関連する情報が報じられない日はない。最近では、教皇レオ14世が5月25日、初の回勅「マニフィカ・ヒューマニタス:人工知能時代の人類保護について」を発表したが、その回勅発表に米国のAI企業アントロピックの共同創設者のクリストファー・オラー氏が出席して話題を呼んだばかりだ。
 「宗教」と「科学」は久しく対極概念と受け取られ、宗教は中世まで世界を掌握してきた。しかし、人類がルネサンス、フランス革命などを経験した後、「科学」が世界を急速にリード、「宗教」は中世の遺物のように扱われてきた。そしてAIの出現は「宗教」に決定的な幕引きを強いるだろうと考えられてきた。
 ところが、大方の予想に反し、21世紀に入って勃発した戦争、紛争の背景には「宗教的要因」がこれまで以上に深く関わってきていることに気が付く。
 ロシアのプーチン大統領が2022年2月24日、隣国ウクライナにロシア軍を侵攻させて以来、世界は戦争モードに突入した。2023年10月7日にはパレスチナのガザ地区を実効支配しているイスラム過激テロ組織「ハマス」がイスラエルとの境界網を破壊して侵入し、音楽祭に参加していたゲストや集団農園(キブツ)を襲撃して1200人以上のユダヤ人らを射殺、250人以上を人質にした。イスラエル側がハマスへの報復攻撃を開始し、通称「ガザ紛争」が勃発した。そして今年2月末、米・イスラエル軍のイラン攻撃が始まった。世界の原油輸送ルートのホルムズ海峡の封鎖で世界経済は混乱している。

宗教的な要因
 看過できない点は、21世紀の戦争、紛争には宗教的要因が深く関わっていることだ。例えば、ロシア正教の最高指導者キリル1世はプーチン大統領のウクライナ戦争を「形而上学的な闘争」と位置づけ、ロシア側を「善」として退廃文化の欧米側を「悪」とし、「善の悪への戦い」と解説する。プーチン氏はウクライナとの戦争を単なる政治的紛争ではなく、キリスト教の価値観を守るための「聖戦」と主張し、 西側諸国を「世俗化し、サタン(悪魔)主義に陥った存在」と定義し、ロシアをそれに対抗する「神聖な法の守護者」と位置づけている。
 次は、ガザ紛争の場合だ。ハマスの奇襲テロに遭遇したイスラエルのネタニヤフ首相は2023年10月28日、国民に向かって「アマレクが私たちに何をしたかを思い出すべきだ」と述べた。モーセがエジプトから60万人のイスラエルの民を引き連れて神の約束の地に歩み出していた時、アマレク人はイスラエルの民を襲撃した。同首相は旧約聖書の「申命記」に登場するアマレクに言及し、いつの世代でも背後からイスラエルを殺そうとする敵が存在することを国民に改めて想起させている。旧約聖書の世界が21世紀に入っても今日的意味を有しているのだ。
 トランプ米政権の2期目に入り、ホワイトハウスに信仰局が新設され、現代のリベラル・デモクラシーに代わり、キリスト教の教義を政治・社会運営の基盤に据えようとするインテグラリズム(統合主義)と呼ばれる政治運動が進行中だ。ネオ・インテグラリズムの特徴は政教分離の否定だ。 国家(政治権力)は、国民の現世的な利益だけでなく、霊的な幸福(最高善)にも配慮すべきであり、政治権力は最終的に教会(精神的権力)に従属すべきだと主張する。また、 現代の自由主義を「腐敗した支配階級」と批判し、キリストの王権を認める社会秩序への「体制転換」を目標に掲げるポスト・リベラリズムの世界だ。
 ただし、メディアではあまり報じられなかったが、トランプ大統領は昨年9月、首都ワシントンの連邦議会近くにある聖書博物館で「偉大な国家であるには宗教が必要だ。私はそれを強く信じている。あらゆる試練を乗り越えるには何かが必要だ。その何かとは神なのだ」と、宗教を重視する意思を強調している。

信じる価値観の争い
 一方、イランでは1979年のイスラム革命以来、聖職者支配体制だ。イスラム教シーア派の盟主イランには殉教思想が根強い。 彼らにとっての敵(主に米国やイスラエル)は、暴君ヤズィードだ。宗教的な使命として彼らとの戦いが正当化される、といった具合だ。
 21世紀の戦争(紛争)は、前世紀のような「政治体制や経済の仕組み(資本主義vs社会主義など)」の争いから、「アイデンティティや信じる価値観(宗教や文化)」の争いへと変化してきた。現代の戦争は、単なる領土や利益の奪い合い(対称戦)ではなく、人々の心の根底にある「信仰とアイデンティティ」のぶつかり合い(非対称戦)であるため、より解決が難しく、長期化するわけだ。