アメリカの原型構築したピューリタン共同体

連載・信仰の自由とキリスト教共同体の形成(3)
本紙前代表 石丸志信

ジョン・ウィンスロップの肖像画(ウィキペディア・コモンズ)

新大陸入植の先駆け
 ピルグリム・ファーザーズが新大陸に到着するよりも、先に新大陸に足を降ろしたのはカトリック圏のスペイン王国だった。1492年、コロンブスの「新大陸発見」以来、彼らは中南米に鉱物・植物資源を求めて上陸を開始した。この年は、イベリア半島において大きな転機の年だった。それまで、イスラム勢力からの失地回復運動を展開してきたが、この年、拠点グラナダを陥落させ、イベリア半島をキリスト教徒の手に取り戻すことができた。
 その勢いで大西洋に歩を進め、経済交易と海外宣教の道を開いていく。16世紀初頭、宗教改革期に入って、北ヨーロッパにプロテスタント運動が拡大する一方、内的刷新をなすカトリック教会も、世界宣教の機運が高まり失地回復のため新大陸に乗り出していった。
 およそ一世紀遅れて、イングランドがスペイン艦隊を打ち破ってのち、ようやく植民地争奪戦に加わるようになる。
 ジェイムズ王の治世、王の特許状を得て設立された「ロンドン会社」(後のヴァジニア会社)が百数十名の入植者を送り出したのは1607年。ジェイムズ川のほとりに「ジェイムズタウン」を建設し定住した。入植者の中に国教会牧師がおり、入植者たちの心の支えとなり、国教会の礼拝が守られた。彼らは、後発のピルグリム・ファーザーズと違い、信仰の自由を求めて本国を離れたわけではなかった。本国の経済的利益還元のための植民地開拓に取り組み、国教会の信仰が保たれた。

「丘の上の町」を目指して
 1620年にプリマスに上陸したピルグリム・ファーザーズは、カルヴァン主義に基づくピューリタンだが、その中でも、分離派と呼ばれるグループだった。国教会のプロテスタント改革の不徹底さを批判し、国教会から分かれる道を選んだ。先のヴァジニア植民地の人々とは違い、国教会からの弾圧を逃れて、故郷を捨てて新天地に渡った小さな家族共同体だった。その点において、イスラエル民族の父祖たるアブラハムと重なるところがある。それゆえ米国建国の「神話」として人々の心に容易に刻まれていったのだろう。
 本国での国教会の統制が強まるなか、1628年、ジョン・エンデコット率いる50名のピューリタンがプリマスの北に入植しセイラムの町を開いた。翌年には、チャールズ1世の許可証を得た「マサチューセッツ湾会社」が設立され、ピューリタン「非分離派」の一団が大規模に入植を始めた。ボストンの町を中心にその後大きく発展し、やがてプリマスを吸収することになる。
 彼らには、明確なビジョンがあった。それは国教会改革のモデルとなる「丘の上の町」を建てることであり、それが確立すればやがて本国の国教会を内部から改革しようというものだった。彼らは、聖書に基づく理想の信仰共同体構想をもって入植計画を立案し、法的根拠をもって政治体制を組織整備していくことになる。
 1630年に渡来したジョン・ウィンスロップは、初代のエンデコットに代わり総督としての指導力を発揮し、信仰共同体としての基礎を確立する。彼の描いた構想は「『神の栄光と教会の福祉のため』に聖書に示された真理に基づく国家建設であった」(曽根暁彦著『アメリカ教会史』日本基督教団出版局p・60)。目指すは神政政治形態であり、牧師は政治に対しても極めて高い指導的立場に立っていた。
 ウィンスロップ総督を支えたのが、彼の友人で1633年に渡来しボストン第一教会牧師となるジョン・コットン、そして、1635年にドーチェスターの牧師となるリチャード・マザーとその一族であった。彼らが、カルヴァン主義に基づき、宗教分野のみならず、政治、教育分野にも指導力を発揮する。「信仰は政治を支え、政治は信仰を擁護すべきであるというジュネーブ市政の実践がマサチューセッツにおいてもまた展開されたのである。」(曽根 同上 P・61)
 カルヴァン主義の抱いた神の国理想を前面に掲げ、新たにマサチューセッツ湾岸植民地で形成されていくピューリタン共同体こそ、実質的には今日のアメリカの原型を構築するものであったといえる。

(2026年7月10日付 837号)