「飛鳥・藤原の宮都」が世界遺産に

日本の古代国家始まりの地

石舞台古墳

 6月6日、文化庁の発表によると、奈良県橿原市、桜井市、明日香村におよぶ19件の史跡で構成される「飛鳥・藤原の宮都(きゅうと)」が、ユネスコの世界文化遺産に登録される見通しとなった。7月19日から韓国・釜山で開かれるユネスコ世界遺産委員会で正式決定される。
 6世紀末から8世紀初めの飛鳥時代は、中国・朝鮮との交流と動乱に対応しながら、日本に豪族連合から中央集権の国家体制を成立させた時代である。中心になったのが先進的な仏教と中国の律令制であった。
 わが国初の本格的な寺である飛鳥寺は蘇我馬子による蘇我氏の氏寺で596年の創建。当時は塔を中心に東・西・北の三方に金堂があり、外側を回廊がめぐる高句麗様式だった。本尊の飛鳥大仏は、顔は面長でやや四角く、大陸風で、首から下がぼやけたようなのは何度も火災にあったからで、創建当初なのは顔の一部だけ。そのため日本最古の金銅仏なのに国宝には指定されていない。
 飛鳥寺は蘇我馬子の子が寺司で、高句麗僧の慧慈と百済僧の慧聡が住み、聖徳太子もここで仏教を学んだのだろう。仏教公伝は欽明天皇の538年(552年説も)で、百済の聖王から仏像と経典が贈られた。明日香村の石舞台古墳は馬子の墓とされる。

飛鳥大仏


 欽明天皇の娘で最初の女帝となった推古天皇と聖徳太子は607年に小野妹子を隋に派遣し、翌年には留学生も送り律令制や仏教などを学ばせている。その間、隋が滅び、618年に唐が興った。帰国後、留学生らが起こしたのが645年の乙巳の変とそれに続く大化の改新である。
 当時の朝鮮半島は高句麗・百済・新羅の三国時代で、日本はかつて拠点としていた任那を滅ぼした新羅と敵対関係にあった。百済が日本に仏教を伝えたのも、新羅への連合戦線を組むためで、高句麗が慧慈を送ったのも、隋の侵攻に支援を期待してのことである。
 推古天皇を継いだ舒明天皇が崩御し、中継ぎ的に即位したのが二人目の女帝・皇極天皇で、古代国家を概成した天智天皇と天武天皇の母。乙巳の変は皇極天皇の目前で起き、中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足が、横暴になった蘇我入鹿を殺害した。舞台となったのは入鹿が建設した飛鳥板蓋宮(いたぶきのみや)である。
 645年に退位した皇極天皇が、孝徳天皇が難波宮で没した後、655年に斉明天皇として初めて重祚(ちょうそ)したのも板蓋宮で、壬申の乱に勝利した大海人皇子(おおあまのみこ)が672年に天武天皇として即位した所でもある。

飛鳥板蓋宮跡


 斉明天皇は唐・新羅連合軍に滅ぼされた百済救援のため自ら筑紫に赴くが、同地で没した。百済復興に派遣した3万もの兵が惨敗したのが663年の白村江の戦。天智天皇は都を海から遠い大津に遷し、対馬や北九州、瀬戸内海沿岸に山城を設け、侵略に備えるためとして豪族らを統率し、中央集権体制を確立していく。
 近鉄飛鳥駅から徒歩5分で高松塚古墳があり、そこから北に10分ほど歩くと欽明天皇陵が、山すそを歩くと亀形石造物や鬼の俎(まないた)など斉明天皇時代の石の造形があり、やがて夫婦が仲良く眠る天武・持統天皇陵がある。
 橿原市にある藤原宮跡は持統天皇が中国の都城制度を取り入れて築いた日本初の本格的な都・藤原京の中心となった宮殿跡で、耳成山(みみなしやま)・香具山(かぐやま)・畝傍山(うねびやま)の大和三山に囲まれた場所に築かれた。その風景は今も変わらない。