世界平和統一家庭連合の解散命令確定
法治主義の国家として考えられない
世界平和統一家庭連合(旧統一教会)への解散命令について、6月22日、最高裁判所は家庭連合から出ていた特別抗告を棄却し、解散命令が確定した。法的観点などから解散命令の問題点を指摘してきた杉原誠四郎氏(元武蔵野女子大学教授)に、今回の確定を受けて寄稿していただいた。
去る3月4日に出た旧統一教会への東京高裁の解散命令決定に対して、旧統一教会側から出ていた特別抗告につき、最高裁は、6月22日棄却した。これによって旧統一教会の解散命令は、あっけなく確定した。
遅きに失したが、私は私の名前で、6月16日付けで下記のごとく、最高裁に意見書を提出した。
法的観点からすれば、令和5年10月13日の文科省の東京地裁に向けての解散請求から始まって、令和7年3月25日の東京地裁の解散命令決定、令和8年3月4日の東京高裁の解散命令決定、そして今回の最高裁の特別抗告棄却の決定は、下記の意見書で縷々説明しているように、法の支配、法治主義の国家としては考えられない進行で、旧統一教会の解散が決定した。「司法の自殺」と言ってよいほどの異常なものである。
最大の焦点は、一身においては死刑に相当する宗教法人の解散を、憲法第32条に定める公開の裁判を受けないままで命じることができるのかという問題である。
最高裁の決定では次のように述べている。「法81条1項に基づく宗教法人の解散命令は、宗教法人について同項各号に該当する事由がある場合に、公益の確保の観点から、裁判所が所轄庁等の請求により又は職権で当該宗教法人を強制的に解散するものであり、当事者の主張する実体的権利義務の存否を確定することを目的とするものではないから、その性質は固有の司法権の作用に属しない非訟事件についての裁判であるということができ、純然たる訴訟事件についての裁判として口頭弁論を経ることを要するものということはできない。」
つまりこれは、旧統一教会は宗教団体としては依然として存続しているものであり、宗教法人法は、この団体に法人としての資格を与えたものであり、その資格を取りあげるのに過ぎないものであるから、非公開の非訟事件として扱ってよいと言っているのだ。つまりそこには実体的権利義務は存在しないと言っているのだ。
ならば宗教団体として持っている財産はどういうことになるのか。宗教法人の資格を奪うだけというならば、宗教法人として持っていた財産は宗教団体固有のものだということになるではないか。解散の手続きを進めるに当たって、被害者と名乗る者への賠償としての支払いは認められるとしても、清算人は可能なかぎり無駄に費用を使わないようにする注意義務があり、解散手続きが終われば、残余財産を宗教団体に返還するというようになっていなければならないのではないか。したがって、清算人の清算手続きは宗教団体の監視下にあらねばならないのではないか。
が、現在進められている解散手続きは、それどころではない。礼拝施設をも処分の対象とし、信者の使用を禁止しているのである。宗教法人法で「宗教団体」とは礼拝施設を保持していることを要件としているが、現在進められている解散手続きは、宗教団体固有の礼拝施設をも処分の対象とし、信者の使用を禁止するとは言語道断である。これでもって宗教団体としての存続は認め、信仰の自由を尊重しているといえるのか。
下記に示した私の意見書は東京高裁の解散命令決定に対する法的問題への陳述であるが、最高裁は原則的に全てこの東京高裁の解散命令を支持しているから、この意見書は最高裁の「決定」への問題提起ともなる。残念ながら、最高裁判事に、法とは何か、法の支配とは何か、法治主義とは何かを冷静に考える判事がいないということになるが、これは法治国家日本の大悲劇と言わなければならない。
意見書
最高裁判所第三小法廷 御中
杉原誠四郎
元武蔵野女子大学教授
(宗教教育、歴史教育、憲法)
私は、元武蔵野女子大学教授として、長年にわたり宗教教育、歴史教育、及び憲法学の研究に従事してきた立場から、本件について意見を述べる。
なお、本意見書は、2026年6月11日に開催されたICRF(国際宗教自由連合)主催の懇談会において、学者、宗教者等の有識者から示された意見に多くの示唆を得て作成したものである。
本件の発端は、令和4年7月8日に奈良市内で発生した安倍晋三元首相銃撃事件である。銃撃犯は旧統一教会に恨みを持っており、安倍元首相が旧統一教会を支援しているという認識のもとに、旧統一教会への長年の恨みを晴らし、併せて安倍の旧統一教会への支援を断ち切るために銃撃したと警察の取り調べで述べたとされる。こうした供述内容が広く報道されると、旧統一教会に対する世間からのバッシング・批判が激化した。
その後、文科大臣は令和5年10月13日、東京地裁に旧統一教会の解散命令を請求した。東京地裁はこの要請を受けて、非訟事件の手続でもって、令和7年3月25日解散命令を決定した。さらに、旧統一教会から即時抗告を受けた東京高裁も、同じく非訟事件の手続をもって令和8年3月4日解散命令を認める決定をした。解散命令の法的効力は高裁決定により生じ、家庭連合は解散させられ今日に至っている。
これによって、旧統一教会は公開の裁判の審理を受けることなく解散させられたことになる。また、安倍元首相の銃撃殺害は教団の政治家に対する政治的影響力を断つための殺害であり、明白なテロというべきである。しかるに、解散命令は、この銃撃犯のテロに対して、これ以上ない最大の報酬を与えるものとなった。
公開裁判の機会を与えず解散させ、結果としてテロに最大の報酬を与えることになったのだ。このことにより、日本は、信教の自由をめぐって世界からも注目される極めて深刻な異常事態を発生させた国とみられるに至っている。
解散命令は、昭和26年4月3日法律第126号として制定公布された宗教法人法に基づく。同法第81条第1項には、解散について「裁判所は、宗教法人について左の各号の一に該当する事由があると認めたときは、所轄庁、利害関係人若しくは検察官の請求により又は職権で、その解散を命ずることができる」とある。そしてその第1号に「法令に違反して、著しく公共の福祉を害すると明らかに認められる行為をしたこと」とある。さらに同条第7号において裁判による手続は非訟事件手続法によるとある。宗教法人の解散に関わる法律上の規定はこれだけである。
条文としての文言だけでいえば、「著しく」とか「明らかに」という文言があることから考えても、安易に解散命令を出してはならないというのが立法者意思であることがわかる。
そこまで解散命令に慎重でありながら、手続としては裁判をして公開裁判ではなく非公開の非訟事件の手続によるとしたのはどうしてか。
手続が非公開の裁判たる非訟事件の手続で進めるとは、刑事事件にしろ、民事事件にしろ、上記のごとく解散事由として誰が見ても「著しく」「明らかに」なっている状況ならば、公開の裁判を開く必要はないと考えたからであろう。
つまり非訟事件として扱うとしたのは、解散事由はすでに刑事事件や民事事件で多数の判決が出ていて明白である状況で、行政庁が解散命令を出してよいような状況になっているが、それでもさらに慎重を期して、行政庁が直接に解散命令を出すのではなく、裁判所に判断を預けて裁判所が確認し判断したうえで解散命令を出させようとしたのだと考えられる。したがって公開の裁判を開く必要はなく簡素な手続である非訟事件の手続でも問題はないとしたのであろう。
こうした立法者意思が直接、本条の解釈に拘束を与えるものではないが、それをある程度前提にしなければつじつまがあわない。事実、旧統一教会問題が起こるまでは、解散は宗教法人が刑事事件を起こしたときに限ると解釈され、適用されてきた。
しかしながら、民法に関わるものについても、解散事由と成り得るとの見解にも一定の理由はあるといえる。民法上の不法行為であっても、宗教法人がそれを繰り返し、行政庁がいくら指導をしてもその不法行為を止めず、不法行為をとがめる判決がいくつも続き、社会的に被害が累積しているときには、解散事由が成り立つとも考える余地もある。
しかし、家庭連合については事情が異なる。令和5年10月13日、文科大臣は上記宗教法人法の規定に基づき、東京地裁に解散命令を請求した。しかし、請求の根拠としたものは、旧統一教会からの被害者と名乗る者の被害報告を集めたものだけであり、特に確定判決のない近年のものについてはその報告にある被害が事実として存在するものかどうかについて、証拠に基づく具体的な検証のないものだった(決定文では「推測」、「可能性」を多用)。中には本人ではない者が報告していることが明らかになったものなど最初から虚偽であるものまで存在した。形式上全てのものが証拠としての検証を経ていないのであるから、形式的には全て証拠能力のないといえるものだ。
しかし、この被害報告を前提に、東京地裁は令和7年3月25日解散命令を決定し、東京高裁もこれに続いた。これは、裁判は証拠に基づいて判断するという証拠裁判主義の原則を侵しており、到底、法の支配、法治主義の下では受け入ることのできないものである。すなわち証拠に基づかなければ罰することはできないという、法の支配、法治主義の原則たる「疑わしきは罰せず」の原則を明らかに侵した決定である。東京高裁の決定により、解散命令は効力を発し、旧統一教会は解散となり、その手続が目下進んでいる。
この高裁の決定は、信仰に基づく献金であっても、高額の場合は社会通念上相当な範囲を逸脱すると認められるので、不法行為となる恐れがあるとした。そして信者による不法行為を防止するための実効性ある手段は、旧統一教会の解散命令以外に見当たらないとして解散命令を決定した。
この東京高裁の決定は、東京地裁の決定と同様、証拠裁判主義に基づいていないことで根本的な問題がある。また、高額の献金を全て不法行為の恐れがあるとしたのは宗教活動に対する不当な判断であり、裁判官がいかに宗教に対して無知かを表している。そして未だ起こっていない将来の可能性をもって、それを防止するために解散するとしたが、将来における可能性ならば論理上全ての宗教法人が該当するといわざるをえず、しかるに将来の可能性でもって旧統一教会のみを解散させるこの決定は、法の支配、法治主義のもとで最も重要な原則である法の下の平等を侵している。
さらにまた、本決定は東京地裁の決定も含め、文科大臣は解散命令請求以前に、旧統一教会の不法行為等諸問題につき、適正に行政指導を行えばそれによって防止することができるかもしれないのに、それを経ないで解散命令を決定した点でも問題がある。仮に解散事由が存在する場合でも、解散命令以前に適正な行政指導を全くしないまま、いきなり解散命令に結びつけるのは、法の支配及び法治主義の原則である比例原則に反する。法としての対応は、問題の大きさに比例して対応しなければならないという比例の原則を侵しているといえる。
東京高裁の決定は時効という観点からも重大な問題がある。本決定で取りあげた被害の案件は、46年前まで遡っている。我が国の民法における時効は原則として10年であるが、高裁の決定においてかくのごとく時効を適用しなかったのは、法の支配、法治主義のもと、やはり許されることではない。
また、このように時効を無視して46年前の案件まで遡ることができるとすれば、日本では広く知られている事実として他にも解散事由が成り立ち解散命令が可能となる宗教法人がある。これらを放置して旧統一教会のみを解散させるとすれば、上記、法の下における平等の原則を侵すことになる。
東京高裁のこの決定は次のような誤りも犯している。本決定では、旧統一教会はこの解散命令によって宗教法人の資格を失うだけで、旧統一教会が宗教団体として存続することは妨げるものではないとしている。そうしながら、その宗教団体の礼拝の施設まで処分の対象とし、信者の使用を禁止している。
宗教法人法は宗教団体をして、礼拝の施設を有するものとしている。したがって、宗教団体として存続の自由は認めるとしながら、その宗教団体の信者にその礼拝の施設を奪ってこれを使用させないのは自己矛盾である。
民法にあっては、民事執行法において、個人の財産を強制的に差し押さえる場合、仏像、位牌その他礼拝又は祭祀に直接供するために欠くことのできないものは差し押さえの禁止財産としており、礼拝の施設は正にこれに該当するはずではないのか。
宗教団体は信仰をともにする個人の集まりであり、それを宗教団体として認めながら、信仰に不可欠な礼拝の施設を、その宗教団体の信者に使わせないのは、明らかに自己矛盾であり、信仰の自由、信教の自由に対する冒涜である。
今回の東京高裁の解散命令決定で、最後にもう一つ問題にしなければならないのは、しばしば教義解釈を持ち出し、高額の献金に必然性があると指摘しているが、司法が教義解釈の問題に立ち入るのは許されない。昭和56年の最高裁の判決にあるが、教義解釈の問題は、内心の信仰に直接関わるものというべきであり、裁判所が法令を適用して終局的に解決できる事柄ではないといえるからである。教義解釈の問題に安易に立ち至った今回の東京高裁の解散命令決定は、司法として決して許されない一線を越えたというべきである。司法として僭越にも越権行為をしたということになる。
以上の問題の他に、本件では、証拠に基づく解散事由がない状況、換言すれば解散事由が全く不明確である状況で、曖昧な解散事由を根拠に法人に対する死刑宣告に相当する解散を、日本国憲法第32条の公開の裁判を受ける権利を与えないで行ったことは明らかに憲法違反である。解散命令を非訟事件で扱ってよいとは、証拠裁判主義に基づく解散事由が誰の目にも明瞭であるときにのみの場合であることは上記の説明のとおりである。公開の裁判を行わないで、1つの宗教法人を解散させたことは、本件において最も大きな問題であり、まさに日本は信仰の自由、信教の自由をめぐって言い尽くせない異常事態に陥っているといえる。
以上、今回の東京高裁の解散命令決定は、裁判の根本である証拠裁判主義を守らず、最も重要な法の下の平等の原則を侵し、比例の原則を守らず、時効の概念を無視し、信者の信仰の自由を侵して宗教団体の固有の施設たる礼拝の施設を差し押さえ、教義解釈に無謀にも立ち入るという司法としての幾多の越権行為を犯した「歴史の汚点」ともいうべきものである。
総じていえば、今回のこの決定は、司法のあるべきあり方を否定して行った政治的な決定であるというよりほかはなく、「司法の自殺」であったといわなければならない。
そしてこの決定も含め、本件に関わる全体の問題の最大の問題は、一身の場合でいえば死刑に相当する法人の解散を、憲法第32条に定める公開の裁判を経ないで行っていることである。しかも解散事由として用いた案件のほとんどは証拠能力の検証を行わないものであり、このような証拠能力の検証のないものを圧倒的に多く含んでそれを解散事由にして、憲法に定めている公開の裁判によらず非公開の非訟事件の手続でもって解散命令の決定をしたことは、単に公開の裁判を受ける権利を認めなかったというだけではなく、憲法違反の度合いをさらに大きくしたものとして考量すべきであり、法の支配、法治主義の国家としてはありえないことが起こっていると言うべきである。このような手続によって宗教法人の解散が認められるとすれば、法の支配及び法治国家の原則に深刻な影響を及ぼすものといわざるを得ない。
令和8年6月16日


