波爾布神社、ひっそりと湖北の山あいに

連載・京都宗教散歩(43)
ジャーナリスト 竹谷文男

橘諸兄が寄進し、火災の後、再建された神輿

 「波爾布(はにふ)神社」(滋賀県高島市)は、湖北の西岸、田畑と山あいの境にひっそりと建っている。奈良時代、左大臣橘諸兄(もろえ)は、この山あいの小さな神社に神輿を寄進した。神輿は江戸期、落雷によって焼かれたものの、燃え残った部材で再建されて今も残っている。平安時代には紫式部が訪れ、一条天皇の中宮彰子の出産のために、長歌と神衣一着を奉納したと伝わる。
 波爾布神社の祭神は最初、水の女神である弥都波乃売命(みずはのめのみこと)だったが、天平13年(741)、阿波国の建島女祖命(たつしまめおやのみこと)神社から、土の女神である波爾山比売命(はにやまひめのみこと)が勧請された。同社は、水と土の二女神を祀る饗庭(あいば)庄の総社で、神紋は瓢箪、平安時代に書かれた『延喜式神名帳』にも記載されたいわゆる「式内社」である。
 神社へは、JR新旭駅(高島市)から車で10分くらい、社の近くには「はぶ谷」が流れ、谷は整った石垣で守られている。江戸期に、山から里に下りてくる猪を防ぐため、神社を含めて2万4千本の棒杭が地面に打たれて、長大な猪垣が造られていた。
 橘諸兄の寄進は社伝によると天平12年(740)のことで、神輿は祭神が女神なので八角形をなし、4カ所に「橘の紋」がある。明治期までは2月の初丑の例祭では庄内の新婚者によって担がれて、当時あった内湖を神輿が渡御した。社に奉納された歌には「雪風の 寒さを知らで 神心 みそぎと共に 渡しこそすれ」と詠まれた。神輿が通る神輿道と、葬列が通る葬式道とが厳然として区別されていて、交わることがなかった。また、内湖の中には神輿が通るための神輿石も設置されていたという。
 神輿が寄進された天平12年は、諸兄が政治的に批判を受け、政局が混乱し、また恭仁京への遷都が行われた時期だった。同年8月、政敵の大宰少弐・藤原広嗣が政権を批判し、諸兄側の僧玄昉らを追放する上表文が上げられた。9月は広嗣が九州で反乱を起こし、10月末には聖武天皇が伊勢に行幸し、乱平定後も天皇は平城京に戻らなかった。12月に諸兄は、自分の本拠地に近い恭仁郷に恭仁宮を整備して入り、聖武天皇の勅令により遷都が決まった。
 諸兄は寄進する時、天下泰平や恭仁京への遷都の成功を願ったはずだ。諸兄の母は藤原不比等の妻・橘三千代で、天平9年(737)に藤原4卿 (武智麻呂、房前、宇合、麻呂)が疫病で亡くなった後、全盛期を迎えたが、その後、恭仁京経営の失敗などによって権勢を失った。
 もう一つは、一条天皇の中宮彰子の内使だった紫式部が寛弘5年(1008)、中宮に子が生まれるようにと長歌と神衣を奉納した。境内には御手洗(みたらし)の池と呼ぶ湧き水があり、長歌に詠み込まれた。「はぶの みたらし 水わきて〜」と始まる。「はぶ」は「山あい」の意味があり、「はぶ谷」とを掛けたであろうこの長歌は、かつて波爾布神社で雨乞いの祭が営まれた時に歌われて、踊られた。しかし、残念なことに江戸期の火災によって記録が焼かれ、歌自体も忘れられてしまった。

波爾布神社本殿には、社紋の瓢箪が奉納されていた


 今は知るひとも少なくひっそりと建つ波爾布神社であるが、しかし、かつては諸兄や式部の奉納を受ける霊験あらたかな大社だった。近くには赤坂山と呼ぶ山が複数有り、鉄を含む赤色の山塊が存在し、5世紀以降の製鉄地でもあった。
 神社から湖岸に出ると、竹生島が真東に見える。湖岸はかつては島への港として、また竹生島の遙拝所として賑わった。竹生島は、浅井姫命である竹生島明神と、日本三大弁財天の首位で最古の弁財天とを祭っている。波爾布神社の霊験は、竹生島信仰に由来しているのかも知れない。

(2026年6月10日付 836号)