国際宗教都市神戸の寛容性/神戸史談会
加藤生田神社名誉宮司が講演

創設121年に及ぶ神戸史談会(加藤隆久会長)の例会が5月10日、神戸市中央区の生田神社会館で開かれ、同社への正式参拝に続いて、加藤名誉宮司が近著『国際宗教都市神戸の物語』について講演し、その後、境内の史跡などを案内、詳しく解説した。
加藤氏によると、生田神社の北にある北野町に諸宗教の施設が集まったのは、幕末1868年の神戸開港以来、海岸近くに外国人居留地が設けられたが、それが手狭になり、より良い居住地を求めた外国人が六甲山のふもとの北野に邸宅を構え、外国人と日本人との雑居地になったからである。
神戸が国際宗教都市になった理由の一つは同市の宗教的寛容性にあり、北野がそれに一役買っている。例えば、昭和56年(1981)に始まった北野天満神社の「北野国際まつり」は在住外国人の主導で運営され、諏訪神社は、長崎から移住してきた華僑が、長崎の諏訪神社を連想し、海の見える山腹にある同社に参拝するようになった。現在、神戸平和研究所が毎年11月11日に開催している「世界平和 祈りの幕開け」では、参加した諸宗教の代表がそれぞれの形式で世界平和の祈りを捧げている。
以上、同書の紹介に次いで加藤氏は、生田神社の形成について次のように語った。『日本書紀』には、神功皇后が朝鮮半島遠征の帰り、難波の港に入ろうとしたが船が進まなくなったため、今の神戸港沖で神占いをしたところ、稚日女尊(わかひるこのみこと)が現れ、「私は活田長峡国(いくたながをのくに)におりたい」と言われたので、海上五十狭茅(うながみのいさち)を神主に祀られたと書かれている。これが生田神社の始まりで、稚日女尊は天照大神の妹、あるいは和魂とされている。生田神社を守る家・神戸(かんべ)に44戸が命じられ、神戸村ができたのが今の神戸の発祥である。
生田神社の二の鳥居を入って左側に、海上安全などの末社・大海(だいかい)神社があり、御祭神は猿田彦命である。漁師や海運に携わる人たちがいたところに、文化の高い神が来て、地主の神を征服したのであろう。大海神は地主の神、稚日女尊は天孫族の天津神で、土俗の神である猿田彦のところに天津神が来たのである。

鳥居を挟んで大海神社の反対側に、酒造・農工業の神を祀る松尾神社がある。平安時代の『延喜式』には、新羅からの客人に神酒を供するため、大和国の片岡神社、摂津国の広田・生田・長田の各神社から合わせて200束の稲が生田神社へ送られ、生田の神主が醸造し敏売崎(みぬめざき)で振る舞った、と書かれている。その理由は饗応と祓え(検疫)で、生田神社は大和朝廷の外交の神として古代国家に取り込まれてきたのである。これらは神々の習合、共存であり、後の神仏習合の基礎になったと思われる。つまり、日本の宗教的寛容性の基を神道の歴史が形成してきたと言えよう。
講演に続いて加藤氏は生田神社境内の石碑などの史跡を案内した。生田の森では、奥の池で行う「水みくじ」が人気。縁結びの神として知られる生田神社の中でも、特に「良縁」を占う力が強いとされ、紙片を池に浮かべると「大吉」などの文字が浮かび上がってくる。これは、朝ドラ「ばけばけ」でも紹介された、島根県の八重垣神社にある「鏡の池」で、用紙に硬貨を乗せて浮かべ、沈むまでの時間と場所でご縁の訪れる時期や相手を知る占いをヒントに加藤氏が思いついたという。


