クラーク博士の教え子たち

日本を救った若きキリストの群れ

札幌農学校に赴任したクラーク博士(『写真集北大100年』から)


 札幌農学校は1876年(明治9年)に開校された。当時、北海道開拓使長官の黒田清隆は、先進的な農業技術を導入することで北海道を一大農業王国にし、併せてロシアの南下に備えた防衛基地としての役割を考えていた。そのため米国から技術者を招き、若き人材の育成を札幌農学校の使命と考え、米国州立マサチューセッツ農科大学の学長であったウィリアム・クラーク博士を同校の教頭として招聘した。
 一方、クラークは敬虔なキリスト教徒の一人として、開拓を目指す日本の若者にキリスト教を伝播することが天命であると感じて黒田の招請に応じる。クラークが日本に滞在した期間は僅か8カ月であったが、農学校1期生、2期生が全員キリスト教の信仰に入ったのを見れば、彼の当初の本願は十分に達成したといえる。後にクラークは同校での歩みを振り返って、「あの世に行った際に、天の前に報告することが一つある。それは札幌農学校での8カ月である」と述べている。
 事実、クラークが育てた札幌農学校1期生、2期生はキリスト教入信に止まらず、後に「札幌バンド」と呼ばれる若きキリストの群れを形成していった。それは海外のキリスト教会からの支援や信仰的な強制も受けない無教会主義による独立教会を作っていった。
 ただ、筆者にとって「札幌バンド」は、単にキリスト教の復興青年集団としての働きだけでなく、その後の日本史に大きな影響を与えたという点で、神の見えざる意図を感じざるを得ないのである。
 それは太平洋戦争終結において戦後処理に向かう際に、クラーク博士の教え子らの子供たち、いわゆる1期、2期生の2世たちが日本の国体を守っていくというストーリーである。
 敗戦色濃い昭和20年4月5日、米軍の沖縄上陸から間もなく小磯國昭内閣が総辞職し、次の首相に任命されたのは当時、海軍大臣の鈴木貫太郎であった。昭和天皇より「卿に内閣の組閣を命じる。この重大な時に当たってもう他に
人はいない。頼むから曲げて承知してもらいたい」と御命を受け、太平洋戦争の終戦まで首相として任務に就くことになる。
 ところで、鈴木貫太郎は宮内庁侍従長の時代、2・26事件で生死の境をさまようが、この貫太郎の命を救ったのは札幌農学校2期生の子らであった。鈴木貫太郎の妻足立たかは2期生足立元太郎の娘である。元太郎は札幌独立教会の創設に尽力した一人だが、娘たかは昭和天皇幼少期の養育掛であった。2・26事件の際、侍従長宅に乗り込んできた青年将校らは鈴木貫太郎に銃弾を発射。横たわる貫太郎に部下らの「とどめを」という連呼に対して、たかは「とどめは止めてください。どうしても必要なら私がとどめを刺します」という気丈な立ち振る舞いを見せ、将校らは敬礼してその場を立ち去った。たかは、すぐさま宮内庁に電話をかけるが、そこには2期生町村金弥の五男である町村金五が事務官として従事していた。彼の迅速な対応で貫太郎は一命をとりとめる。もし仮に、ここで貫太郎が死亡していたならば、後の首相就任はなく、敗戦処理もままならなかった可能性が高い。

卒業間近な札幌農学校の2期生たち(同)

 もう一つの事例が、天皇陛下の戦争責任についてである。GHQ(連合国最高司令部)よりその問題に責任を任されたのが当時、米国陸軍准将のボナ・フェラーだった。彼の任務は天皇の戦争責任を判断し、その処遇に関してマッカーサー元帥へ覚書を提出することであった。日本側から意見を聞く一人に挙げたのが当時、かねてから親交のあった恵泉女学園園長の河井道であった。敬虔なクリスチャンであった道に対しボナ・フェラーは「仮の話ですが、もし天皇を処刑するということになったら、あなたはどう思いますか。そして日本の国民はどんな反応を示すと思いますか」と質問した。道は「日本人はそのような事態を決して受け入れないでしょう。もし陛下の身にそういうことが起これば、私がいの一番に死にます」と言い切った。後に、ボナ・フェラーはマッカーサー宛ての覚書について「彼女は私だけでなくマッカーサー元帥にも大きな影響を与えた」と述懐している。
 実は、こうした河井道の生涯に大きな影響を与えた人物が札幌農学校2期生の新渡戸稲造であった。農学校を卒業し米国留学から戻った新渡戸稲造は、母校の教授を務めていた。一方、当時札幌にはスミス女学校という私立女学校があり新渡戸はそこでも教鞭を執っていた。道はそこで新渡戸と出会う。道が14歳の時であった。以来、河井道は新渡戸を師として仰いでいく。新渡戸は皇室に対する崇敬の念は人一倍であったが、そうした新渡戸の天皇観、天皇制思想は道にも受け継がれていったのである。
 こうして日本の歴史をみると、クラーク博士の教えとその実践は、単に教育に止まらず、我が国の救国救世の内容を含んでいたと感じられる。
(湯朝肇)