国際宗教自由連合「信教の自由シンポジウム」
「自分の信仰体系で神を表現する権利がある」

宗教の自由を守る活動を展開する国際宗教自由連合(ICRF、東和空委員長)は先月27日、「家庭連合の解散と信教の自由」をテーマに都内でシンポジウムを開催した(本紙後援。概要は5月号で既報)。各宗教者の発表のうち、米独立カトリック教会のジョージ・スターリングス大司教の発表を紹介する。
自由という概念
自由という概念は、神を天の父母と呼ぶ神の子女としての生活の基盤というだけでなく、〝私〟が神の息子、娘としての真のアイデンティティを受け入れることを妨げられたり止められたりしないということを意味する。
自由は私たちが考える以上に重要である。なぜなら、私たちは神の子として自らの運命を自ら決定し、コントロールする神聖な権利を持っているからである。そして絶対に忘れてはならないことは、自分の生き方を他人に決めさせたり、他人に許可を求める必要はないということである。
宗教の自由であれ、政治的、社会的自由であれ、神を礼拝する権利であれ、自分の言語や信仰体系で神を表現する権利があり、自由に関して言えば、あなたの信仰体系は重要であり、それは自分で決める権利がある。なぜなら、誰もあなたに対して、他者の望む方法で神を礼拝するように強制する権利はないからである。そして神を信じ、自らの方法で礼拝する権利がなければ、宗教は真に自由であるとは言えない。私たちが神との関係を築き、その関係を深めていくためには、その自由が必要なのである。
信教の自由の本質
信教の自由の本質は、私たちが神とどのような関係を結ぶかを自分自身で決定するということであり、そのための〝制度的保障〟として宗教が存在する。これは関係性に関する問題である。日本政府が理解していないと思われるのは、宗教は個人が持つ霊性を制度的に表現するものであるということだ。例えば、政府があなたに神や他者との関係をどのように築くべきかを指示できるだろうか。ここに大きな誤りがある。
問題は、霊性、精神性である。宗教とは、人々が一つの制度を築いていくための道である。宗教は抑
圧、分離、孤立の道具として使われるべきではない。
政府が宗教団体や信者のコミュニティーに対して、あなたたちのやり方で神を礼拝することはできないとか、宗教共同体として集まることを阻止するために法的措置を行うことができるとか、政府の所有物ではない教会の財産を差し押さえるために清算人を派遣するための法制度を執行できると言っているとき、政府が〝神の立場〟に立とうとしているわけである。
政府は、旧統一教会の信者には自分のお金を自由に使う権利はない、教会に献金する権利もないという考えに立っている。このように教会を規制することによって、政府はまるで〝怪物〟のようになっている。政府が、「教会は本来どうあるべきか」を教会自身よりも自分たちのほうがよく分かっていると考えること自体、おかしなことである。
そして、家庭連合にこのようなことが起きたということは、どの宗教団体においても同様の事態が起こり得ると考えていただきたい。


