進取の気性と宗教心に溢れた長浜の歴史

連載・京都宗教散歩(42)
ジャーナリスト 竹谷文男

一燈園春の集い

講演する山口講師(京都市山科区の一燈園で)

 一燈園(財団法人懺悔奉仕光泉林、代表・谷野寅蔵当番、京都市山科区)で、4月18日、西田天香師の生誕を祝う毎年恒例の「一燈園 春の集い」が営まれた。天香師生誕百五十四年を祝い、全国から会員や各界の著名人らが参座し、近代史研究家の山口洋一氏が「長浜が生んだ偉人〜西田天香と服部富造」と題して記念講演を行った。
 最初に「ここに一つの事実あり。一人あり、十字街頭に立つ」で始まる『天下香洞録抄 一事実』を、谷野当番と共に唱和した。西田多戈止祷座から当番を引き継いで3回目のこの集いを谷野当番は、「皆さまにお目にかかれて感謝です」と挨拶し、今回の講演のテーマと山口講師を紹介した。
 天香師は、滋賀県の長浜名誉市民第1号であり、同じ長浜の名家服部家は、天香師が始めた一燈園に土地と家などを寄贈していた。谷野当番は、一燈園が昨年それらを整備し、庭に建てられていた服部富造顕彰碑を移設して供養したことを報告した。
 外交官だった服部氏は、服部氏の親族である山口菅三氏を息子の様に教育し、日露戦争直前に極東ロシア沿海州に共に渡って激動期を過ごした。碑はその服部氏を顕彰したもの。
 服部氏を敬慕しロシアで指導を受けて活動した山口菅三氏の孫が、今回の講演者・山口洋一氏である。山口講師は当時の国際情勢を説明しながら、天香師や服部氏、山口菅三氏などを生んだ長浜の進取の気性について語った。
 彦根藩出身の井伊直弼大老は、安政の五カ国条約(1858年)を結んだが、直前に英仏艦隊が清朝を屈服させた勢いで江戸湾を封鎖した。対して井伊大老は、長州に声をかけて抜刀隊を呼びよせ、オランダ艦隊と米艦隊とが江戸幕府側に付いてくれ、さらに大阪湾に停泊していたロシア艦隊が駆けつけて英仏艦隊の
背後に回り、挟み撃ちの形になった。このため英仏艦隊は戦わずに引いて、この後に条約が結ばれたが、このような国際協調を組み上げることができるのが日本の強さであると、山口講師は話した。
 長浜の商人たちはこの経緯を学び、横浜に商売の拠点を作ったが、彼等はアヘン戦争の実態を知っていたので、欧米が求めてきたアヘンの取り引きを断固として拒否した。本願寺系の仏教徒が多く、進取の気性と宗教心に溢れていて、例えるならピューリタンに似ていた。その気風の中で天香師や服部は幼少期を過ごし、服部は外交官となった。
 日露戦争が不可避となった1900年、服部は外務省を辞し、資産を売り払ってロシア沿海州の要衝イマンに服部商店を設立し、山口菅三をはじめ5人の長浜の若者を選んで赴任し、商業活動をしながらロシア軍の情報を収集した。この服部商店が後の「陸軍中野学校」のルーツになった。開戦の後は、服部氏は元老の伊藤博文を通して「陸軍軍事外交官」を拝命し、最前線でロシア軍と交渉した。この服部氏に付き従って活躍したのが流ちょうにロシア語を操れた山口菅三氏で、山口講師の祖父だった。
 7万名を超えるロシア将兵の捕虜に対して日本は、丁寧な扱いをして多額の費用がかかったが、山口は英国王室のクィーンズバンク「ベアリング商会」と交渉し、帝政ロシアからの捕虜経費480万ポンド(現在の邦貨にして10兆円)を英国側に立て替えさせて、日本の国家財政を破綻から防いだ。
 山口講師は、現在の日本の置かれた状況は当時と似ており、日本が自立した一流国になるためには、外交・軍事・人道の三位一体的な展開が必要であるとまとめた。
 山口講師は東京都生まれ、国際基督教大学卒、富士銀行に入行し、その後外務省の要請を受け「香港返還交渉」をテーマに香港に赴任し、みずほ銀行法人企画部参事役を勤めた。近代史研究家。

(2026年5月10日付 835号)