最澄を敬慕し歴史を重んじる

連載・信仰者の肖像(16)
増子耕一

山田恵諦(1895〜1994)

 

山田恵諦

 山田恵諦は1895年、兵庫県揖保郡太子町に生まれた。1904年出家し、16歳で比叡山に入った。20年天台宗西部大学を卒業。天台宗教学部長および天台宗勧学院院長を経て、74年第253世天台座主に就任。
 座主になって間もなくの頃、北陸地方へ巡回の旅に出かけた。随行は宗務室長の小林隆影で、山田は毎朝4時に起床して勤行を始めるが、小林は、旅先ではゆっくりするだろうと思って6時に部屋に行くと、読経の声が聞こえてきて室内には香煙が立ち込めていた。読経に続いて亡くなった人たちの戒名を読み上げていく。
 「歴史を大切にせよ」とは山田がよく語っていたことで、自ら実践した。伝教大師と天台大師を敬慕して、歴代祖列を深く敬仰していた。
 そこから生まれたのが「一隅を照らす運動」だった。伝教大師は「道心」を持った人こそ「国宝」だと考え、そのような僧たちを比叡山で育て、その精神や行いが社会全体に及ぶことを願った。山田も「一隅を照らす此れ則ち国宝なり」の運動を社会で展開した。
 また人々に勧めていたのが「家庭宗教」だった。誰でも簡単に行うことができて、幸福を生み出すうえで最も大切な要素。朝、洗面を済ませたら神様、仏様、ご先祖に手を合わせて感謝の礼拝をする。
 そこに教義はないが、何をするにも「ありがとう」の声を忘れない。人徳はここから生まれるという。
 ところで1981年、ローマ教皇ヨハネパウロ二世が来日し、日本の宗教指導者たちにあいさつした。こう語ったのだ。「皆様の偉大な教師である最澄の言葉を用いるならば、己を忘れて他を利するは慈悲に極みなり、という思想こそ平和の原点である」と。
 山田は感激した。その頃、比叡山関係者は、87年の比叡山開創1200年の法要に際して、仏教各派のほかキリスト教や神道を含めた教団に比叡山に集まってもらって、比叡山宣言を出そうと考えていた。
 この時、「千日回峰」と「十二年籠山」を満行していた葉上照澄は、以前からカトリックやイスラム教の指導者らと親交があったので、宗教サミットを提案した。
 さらに86年にはヨハネパウロ二世の呼びかけで、イタリアのアッシジで法王庁主催の「世界宗教者平和の祈りの会」が開かれた。その精神を引き継ぐものとして宗教サミットも位置付けられ、開創法要の記念として行われるようになる。
 山田は、神社神道統理の徳川宗敬、新宗教団体連合代表で立正佼成会会長の庭野日敬、キリスト教連合会代表の亀谷荘司、その他を訪問し、賛同を得て準備会を発足。
 一方、海外の宗教代表者招請のため使節をローマやロンドン、スイスへ送り、交渉を経て、海外からの参加者は30数名にのぼった。こうして仏教、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教、ヒンドゥー教、シーク教、儒教を網羅した大宗教サミットが実現する。
 以後比叡山では毎夏、山上祈りの広場で、宗教界の代表者とともに平和を祈っている。
 また75年10月には中国の天台山巡礼の旅に出かけ、84年7月には五台山巡礼の旅に出かけた。一隅を照らす世界回峰の旅だった。(終わり)


(2026年4月10日付 834号)