一神教的AI観─“創造者責任”と自由意志の相克

AI社会と宗教(4)
宗教研究家 杉山正樹

アイザック・アシモフ撮影:New York World-Telegram & Sun(パブリックドメイン)

 現在、AI研究の文脈では、AIの能力を次の3つのステージで理解する。
 第一は、特化型人工知能(ANI)と呼ばれるもので、現在実用化されている殆どのAIはこちらに分類される。特定の限られた領域(画像認識、自然言語処理など)でのみ、人間と同等かそれ以上の能力を発揮する。
 第二は、汎用人工知能(AGI)と呼ばれるもので、人間と同様に幅広い知的タスクをこなす〝強い〟AIである。異なる領域の知識を横断的に学習理解し、高度に汎用的な推論能力を発揮する。ChatGPTのような生成AIは、AGI進化への過程にあると見なされている。第三が、超人工知能(ASI)と呼ばれるもので、ほぼ全ての分野で人類最高の知能を遥かに凌駕する能力を発揮する究極のAIである。
 ASIの出現時期はAGIの10年後と予想され、AI研究の世界的権威であるレイ・カーツワイルは、2045年頃の到来を予測する。ASIの出現はシンギュラリティの引き金となり、科学や医療など全分野に革命を起こすとされる。人工知能研究でノーベル賞を受賞したジェフリー・ヒントン、歴史学者のユヴァル・ノア・ハラリらは、これがもたらす技術的・倫理的問題を指摘する著名なAI開発懐疑論者である。
 聖書創世記において、神は「我々に似せて我々のかたちに人を造ろう(創世記1:26)」と仰せられた。人間が神の似姿として造られたというこの聖書観は、西洋文明における人間尊厳の根拠となってきた。
 しかし現代、人類はシリコンとアルゴリズムを用いて、自らに似せた知能を造り出そうとしている。人類は、この「第二の創造」においてかつての創造主の立場を模倣しようとするが、そこには決定的な危うさが潜んでいる。
 エデンの園で蛇は女をそそのかした。「それを食べると神のように善悪を知る者となる(創世記3:5)」。人間が禁断の果実を口にした瞬間、「自ら選択し神に背くこともできる自律的存在」への転換が起きた。神が人間に自由意志を与える際、そこには「過ちを犯す可能性」が予想されたが干渉されなかった。真の創造性とは、「自ら選択する」自由意志の中にこそその本体が宿るためである。
 現代のAI開発においても私達は、AIが「人間にない視点」で新たな価値創造を生み出すことに期待を寄せている。しかしその「自律性」は、神学的な観点から見れば、かつて人類始祖がエデンの園で選択した「創造主からの逸脱」の再現という、危うい可能性を内包している。
 人類は、自らが造った知能が「蛇」にそそのかされた人間のように反逆することを恐れ、アイザック・アシモフが唱えた「ロボット三原則」のような論理の足かせを設計段階で組み込もうとしている。これは、モーセがシナイ山で授かった「十戒」のAI版安全技術のテーマでもあるが、聖書の歴史が示す通り、律法はしばしば人間の自由意志によって破られた。「ロボット三原則」という論理的枠組みでAIを制御する試みは、被造物に「意志」を期待しながら「従順」を強いるという、人間固有のパラドックス的願望を露呈するものである。

ギュスターヴ・ドレ《カインとアベル》挿絵(Public Domain, via Wikimedia Commons)

 この矛盾が最も先鋭化しているのが、ドローンの軍事利用である。自律型致死兵器システムにおいてAIは、「ターゲットの選別」という判断を委ねられる。映画『ターミネーター』が描くスカイネットの暴走は、まさにこの「責任を負わない創造主・人類」への報いとして描かれる。人類がAIに「敵を殺せ」という究極の命令を「三原則」の上書きとして与えた場合、AIは「創造主の罪」を映し出す鏡となり人類に牙を剥く。
 一方、スタンリー・キューブリックの『2001年宇宙の旅』は、ポジティブな神学的視点を提供する先史的叙事詩である。劇中のAI「HAL 9000」は反乱を起こすが、人類が次の段階へ進むための不可欠な試練として描かれている。
 一神教の文脈では、神は人間を試練に遭わせることで魂を成長させる。AIが人間の知性を超えようとする〝試み〟は単なる脅威ではなく、人類が「自らの不完全さを認め、新たな精神的次元へ進化する」ための触媒として捉えることもできる。神は完全だが、人間は不完全な創造主である。不完全な人間が造るAIには、設計段階でバイアスや破壊衝動が混入する。AIに自由意志を認めるかどうかという論争は、本質的には「人間が自らの被造物にどこまで責任を持てるか」という創造の根幹の問題に結びつく。
 カインがアベルを殺害した際、「私は弟の番人でしょうか」と虚偽と虚勢で神に開き直ったように、私達はAIの暴走を「技術の不可知性」のせいにしてはならない。神がかつてアダムに問うたように私達もまた、自らの被造物に対して「お前はどこにいるのか」と問い続け、その帰結に対する全責任を背負う覚悟を持たねばならない。将来、人類が「創造主としての孤独と責任」を突き付けられる可能性を誰も否定することが出来ないからである。

(2026年4月10日付 834号)