ユダヤ教を排除した西洋の聖書理解

連載・信仰者の肖像(10)
増子耕一

前島 誠(1933〜2019)

前島 誠

 「若い頃から神学校に入り、朝から晩までキリスト教漬けの日々を過ごした。もちろん自分でも、生涯をその道で送ることに決めていた」
 著書『荒れ野に立つイエス』(世界日報社)の「あとがき」で記している。続けてこう記す。「ただ心の片隅に、何か納得しきれないものを感じていた。それは神学というものが、観念の中で構築されているために具体性を欠き、頭では対応できるものの、心から共鳴するところまでは至らなかったのである」。
 前島誠は上智大学大学院神学研究科を修了し、東京カトリック大司教区の司祭となった。そして30代半ばで初めて聖書の舞台、イスラエルの地を訪ねた。
 エルサレムの城門に立った時、一歩もその場を動けなくなってしまったという。頭の中に漠然として存在していた世界が、なまなましい現実としてあったからだ。
 マルコによる福音書1章32節にこうある。「夕暮になり日が沈むと、人々は病人や悪霊につかれたものをみな、イエスのところに連れてきた」。「夕暮」と「日没」が区別されている。この日は土曜日で、安息日なので人の移動や物の運搬が禁じられていたが、日没から翌日となり、規則は解除される。
 石畳を行く群衆も、祈りの朗唱も、食物の匂いも、この司祭の感覚を揺さぶった。そして悟るのだ。キリスト教の本質を理解したければそれを生み出した土壌の理解なしにはあり得ない、と。
 キリスト教はユダヤ教を切り捨てて分離独立した。切り捨ては聖書理解と解釈にまで及んだ。それを知ると、司祭をやめて一信徒となり、玉川大学に教職を得て、聖書の記述をヘブライ語の語源から考え直すようになる。
 「天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」というイエスの言葉がある。「完全」とはどのような意味なのか。
 ヘブライ語で「完全な」は「シャレム」で、意味は「のみを当てていない」こと。石が山から採掘されると人がそれを加工して使う。「完全な」石とはまだ人の手が加えられていない自然石のことで、石は神を象徴していた。この完全な石で彼らは祭壇を築いた。
 「天国ではだれがいちばん偉いのですか」という質問に答えてイエスは言う。「心をいれかえて幼子のようにならなければ、天国にはいることはできないであろう。この幼子のように自分を低くする者が、天国でいちばん偉いのである」(マタイによる福音書18章3〜4節)。
 「完全な」は「幼子」と意味内容が同じだ。
 では「天国」とは何か。「義のために迫害されてきた人たち」(マタイによる福音書5章10節)のもので、来世にあるのではなく、「この地上に神の支配がいきわたった」世界のことだった。
 かつて文学部哲学科で3年になる時、論文のテーマをスコラ哲学ではなくロシアの哲学者ベルジャーエフを選んだ。指導は英文科の名物教授、野口啓祐。前島はここで学問の基礎を学び、厳しい訓練を受ける。
 野口教授からフランス語の文献を示され、「これを一週間で読んで問題点を書きだし、私に見せろ」と言われ、それ以外、何の話もできなかったという。


(2025年10月10日付 828号)