「荻原と白石」、「田沼と定信」の対立
江戸東京の宗教と文化(9)
宗教研究家 杉山正樹
江戸幕府の改革と財政再建

260年にわたる長期政権を維持した江戸幕府であったが、その裏面では常に財政難の影が付きまとっていた。享保・寛政・天保の三大改革は、財政難を克服するための取り組みであったとしても言い過ぎではない。江戸中期以降は、慢性的な赤字に苦しみ、新田開発・年貢の増徴・商品作物の奨励などで乗り切ろうとしたが、いずれも根本的な再建には至らず、幕末の動揺へとつながって行く。
将軍でありながら名宰相として評価の高い徳川吉宗は、知的好奇心旺盛で多才、そして豪快さと庶民感覚を併せ持つ大器であったが、その生涯は質素倹約を常とするものであった。吉宗は、側用人政治を廃止し大岡忠相、田中丘隅など、身分を問わず実利主義で有能な人材を積極的に登用した。治水家の井沢弥惣兵衛為永に下命して行った武蔵国の見沼代用水は、社会インフラ全体に大きな恩恵をもたらし、パナマ運河開削に先立つこと150年の偉業であった。
江戸幕府の財源は、全国に広がる直轄領の年貢米収入、長崎貿易収入、金銀鉱山の採掘収入であったが、綱吉の代には佐渡・岩見の鉱山は既に枯渇していた。吉宗は、年貢米の増徴策として新田開発を奨励促進し、また農民の年貢率を引き上げ大幅な増徴を実現した。
徳川家康は、「米」が基軸となる国家形成を願い「米遣い経済体制」を確立した。大名の領地は「石高」で表示され、これが支配体制の基礎となる。「米」が諸物価の基準で全ての価値尺度となったが、幕府衰退の原因もここに帰結した。
吉宗が頭を悩ましたのが「米増産の米価下落、米以外の物価の高値推移」で、この現象は「米価安の諸色(物価)高」と呼ばれる。給料としての年貢米を「札差」に持ち込み換金し、生活物資を購入する幕府や旗本・御家人は、皮肉にも米の増産で米価が下落し生活が圧迫された。これは、「米遣い経済体制」が商品経済の発達「貨幣遣い経済体制」に追い付かず、市場経済と幕府財政の間に大きな乖離が生じた結果であった。
吉宗は商品作物の栽培も奨励したが、商品化の成功で財をなした豪商、あるいは資力を蓄えた「札差」「両替商」は、財政運営の難しくなった武士に貸し付けを行い、藩の財政を握る者まで現れた。
また、年貢率の引き上げと定免法(年貢率の固定化)の導入は、農民に強い税負担を強いる形となった。この負担に耐え切れず、土地を手放して小作農化する者、商品作物の栽培に失敗し、質に入れた農地を取り上げられる者、地主農家の中には、彼らの流地を取り込んで豪農となる者も現れた。没落農民の多くは、都市に流入して日雇い者となるか無宿となったが、彼らの存在は農本主義の下で商本主義が進展する構造的内部矛盾を示唆するものであった。
吉宗が行った改革では、大岡忠相の建言を容れ行った「元文の改鋳」も重要である。将軍綱吉に仕えた勘定吟味役・荻原重秀は、金の含有量を減らす「元禄小判」で最初の改鋳を行い「元禄バブル」を創出した。幕府はその後、「改鋳」のリフレーション効果(通貨膨張政策)による「出目」(改鋳利益)を期待し、改鋳策を度々打ち出すようになる。
重秀の改鋳を「陽(あらわ)にあたえて陰(ひそか)に奪う術」と非難し、逆改鋳を行った新井白石、この結果招来された深刻なデフレーションからの脱却が、吉宗に課せられた最後の大課であった。経済は常に変化する複雑なシステムであり、一つの要素の変化が他の多くの要素に波及的に影響するという「生き物」のような性質を持つが、早世の重商主義者・老中田沼意次は「生き物」としての経済の実体を理解し、「貨幣遣い経済体制」への構造転換を図ろうとした。

度重なる災害と反田沼派の策動で失脚を余儀なくされた意次の後を受け、松平定信は「学問吟味」「重農主義」への回帰「寛政の改革」を行うが、苛烈な緊縮政策や言論統制が民衆の支持を得られなかった。意次と定信の関係は、元禄・宝永の大地震、富士山噴火に見舞われた重秀と白石の時代背景と対立構造に相似している。
現代版貨幣改鋳の経済政策や金融政策、商業振興など現実の財政危機に対処する実利的施策は、短期的な効果をもたらす。しかし、民心の信頼や社会秩序を損なえば、天の道に背き揺り戻しを招く。逆に、道徳や倹約を重んじる改革は、人心を安定させ正しい秩序を保つ力を持つが、経済の活力を削ぎ停滞を生む危険も孕む。公益を重んじつつも経済の現実を見据え、利と義の両立を追求する為政者の資質の重要性が浮かび上がる。国家や社会を導く者は、利を追い求めつつも道義を尊び、人々の信頼と繁栄を両立させる智慧を持たねばならない。荻原と白石、田沼と定信の対立が示すものとは、政治において実利と道義、そして天意や倫理の調和が不可欠であることを示している。
(2025年10月10日付 828号)


