寒川神社の例祭/神奈川県寒川町
崇敬者が全国から集う

9月20日、神奈川県寒川町の相模一之宮寒川神社(利根康教宮司)で例祭が斎行された。役員、総代をはじめ全国から200名を超える崇敬者が参列し、盛大に執り行われた。例祭は祈年祭・新嘗祭とともに「三大祭」に数えられ、年間で最も重儀な祭典である。前日の19日には商工祈願祭、献灯奉告祭、宵宮祭、さらに流鏑馬神事が武田流大日本弓馬会により奉納された。
当日は時折晴れ間が見える曇り空の下、午前10時に太鼓の音で祭典が開始。斎主の利根宮司、献幣使(石川正人神奈川県神社庁長・師岡熊野神社宮司)、祭員が修祓の儀
を行い、本殿へ参進した。宮司一礼、開扉の儀、献饌の儀が行われ、宮司による祝詞奏上の後、献幣使が祭詞を奏上。2人の巫女が浦安の舞を奉奏し、宮司・献幣使に続き氏子総代や責任役員、星野剛士衆議院議員、木村俊雄寒川町長らが玉串を奉奠した。閉扉の儀の後、宮司が一礼し、式典は滞りなく修められた。
境内や関連施設では19・20日の両日、献茶・献花・献句をはじめ作品展や盆栽展、武道演武、奉納演芸、祭囃子、子供神輿や万灯パレードなど多彩な神賑行事が行われ、夜には参道が奉納提灯に照らされ、両日とも大勢の参拝者で賑わった。
同社客殿地下1階では9月19日から11月9日まで企画展「昭和100年史」が開催されている。今年は「昭和100年」「終戦80年」の節目にあたり、同社が歩んだ昭和の激動の歴史を、貴重な資料や年表を通して紹介している。
寒川神社は大正12年の関東大震災で大きな被害を受け、本殿は国の補助によって再建されたが、その他の施設や調度品は奉賛金を募って復興するほかなかった。そのため県内外に奉賛会が設けられ、奉賛者には御札を頒布したり、記念絵葉書を配布したりして資金を集めた記録も残っている。これらの活動は寒川大明神の神徳を関東近郊に広め、後に全国的な崇敬を集める基盤となったと考えられる。また、当時の相模鉄道は一ノ鳥居を寄進した。この鳥居はのちに銅板包みに改修され、現在も境内に残っている。

展示では太平洋戦争期の資料の数々も紹介されている。出征兵士の武運長久を祈願することは日常的に行われ、戦地から宮司や職員宛に送られた軍事郵便も多数残されている。千人針に縫い付けられた弾除けのお守りに籠めた祈願祝詞「弾丸除守符祈念詞」や、同社の高畠良雄禰宜の応召に際して奏上された「高畠禰宜応召奉告祭祝詞」も展示されている。高畠禰宜は二度の応召を経て戦後に復員し、神前で帰還奉告を行ったという。
戦後は国庫からの支援が途絶え、神社は深刻な経済難に直面したが、地域の人々が畑で収穫した作物などを持ち寄ったりして支えたことで祭礼を守ることができた。昭和30〜40年代に入ると参拝者が増加し、講社や団体も祭礼に加わるようになった。その頃から苦境を支えてくれた地域への恩返しとして社会福祉活動が始められ、寒川病院を通じた医療活動、結婚式を行う参集殿、子どもたちのための少年館の設立、ボーイスカウト活動などは現在も続いている。
交通網の発達により遠方からの参拝者も増え、近年では「パワースポット」として、あるいは崇敬神社としての新たな観点から、若い世代の参拝も目立つようになった。佐原慧学芸員は「本展示を通じて寒川神社をより身近に感じてもらうとともに、地元の氏神様にも関心を寄せ、ぜひ参拝してほしい」と語っていた。


