教育において宗教者が果たす役割

神道禊教 宗家七代管長 坂田安弘教主に聞く


 様々な問題が常態化している日本は、早急な教育の立て直しが求められている。神道禊教の坂田安弘教主は、日本が「道徳先進国」であり続けるためにも、歴史的、長期的視点を持つ宗教者が、宗教者だからこそできる教育を実践しければならないと語る。(田中孝一)
  
 「神祇大道の復興」
 ──最初に、神道禊教の教えについて簡単に紹介していただけますか。
 神道禊教の教祖である井上正鐵様は、江戸末期激動混乱の時代にあって救世済民叢生安寧の世の実現の為に「神祇大道の復興による大和国風(くにぶり)の復興」という大願を立てて立教をされました。神祇大道とは、隠れた御存在である神の意思を理解し、それを常に自分の魂の真柱に立てて神と共に生きていくということです。救世済民叢生安寧の世とは、世の中が良くなり、全ての命が苦しみから救われ、心安らかに暮らし合える世の中です。伊弉諾尊が仰せになられた本来の我が国、大和の国、浦安(心安)の国です。人だけではありません。動物も、草木も、水も、空も、全てのものが共存、共生、共栄する。
 神道禊教の教えでは、これらを音読みせずに訓読み、つまり和語で読みます。「存」を(たもつ)、「生」を(いきる、いかす)、「栄」を(さかえる)と読んでみて下さい。すると「共にたもち、生き生かし、栄える」となり、言葉の持つ意味に拡がりが生まれます。

 「働く(傍楽)」こと
 また本教では日本民族は「働く(傍楽)」民族であるとして、その心と実践を大切にしています。「働く(傍楽)」心とは、「人の為に動く」心、「傍ら(周りにいる人たち)の為に一所懸命に行動する」心です。思いやりであり、気遣いです。それこそが日本の国風だと思うのです。
 「働く(傍楽)」ことは、特別なことではありません。自発的な思いやりに基づいて相手の心を常に気遣い、苦しみや悲しみがあるならば少しでも和らぎますようにと祈る心があれば、幼子であろうと老人であろうとあらゆる人が生きていくうえでなされる全ての営みが「はたらく」ことになるのだというのが教祖様の教えです。
 「働く(傍楽)」生き方の為には自身が心身の清浄を保たねばなりません。自発的な慎みの心や道徳心の顕れとしての行動が求められるのです。これは我が国特有の民族性でもありますが、本教には「内清浄の禊」という教えと実践があります。それは「運命の甦り」の唯一の手立てであり、「息一筋の禊」により行われます。そして学びの道として「鏡の教え」を説き、実践の道として「陰徳の五要領(悔悟の心、捨身決定、勉強、倹約、報本反始)」と「食養生」があります。教祖の説かれた「我れ一飯を捧げて人の飢えを救うの心」は一食献上運動として世界へ広がり、宗教界の世界的運動ともなっています。

教育は歴史の視点を持つ
 ──教育の観点からも大切なお話だと思います。宗教者が教育に関して果たす役割について、どのようにお考えですか。
 宗教と教育は切り離せないものだと思います。宗教者は教育問題、国家の教育方針などにも常に目を向けていなければならない。むしろ、その真ん中に飛び込んでいってこそ、宗教の本来の役目を果たすことができると考えます。問題は、刹那的また主観的に現状だけに目を向けてしまうことです。客観的かつ俯瞰的な視点を持ち、長期の視点を持つことが肝要だと思うのです。教育は継続であり積み重ねです。
 江戸時代の日本は儒教が道徳観の中心に置かれていました。五常の道、仁、義、礼、智、信です。そこに日本では忠、孝、悌、操という四つの徳目を加えて、「和の文化」が形成されました。それこそが、世界が日本人を認めている基であるということを理解し、未来の教育を考える必要があります。しかし残念ながら、国会で論じられている教育改革は、こうした歴史の視点を失っているように思います。
 ですから今の世にこそ、そのような視点を持った宗教者が役割を果たすべきではないかと思います。私が「暁鐘塾」という勉強会を始めた理由もそこにあります。20代の頃から論語、大学・中庸、仏教経典の解釈、歎異抄などを広く講義し、現代の日本人が失いかけたアイデンティティーを取り戻す学びの機会として参りました。十七条の憲法や教育勅語のこと、靖国神社の存在の大切さ、古事記講義、時には外部講師を招き日本の伝統芸能という観点からの学びの機会も持ちました。コロナ禍以来、やむを得ず中断しておりますが、日本の精神文化の基軸を守り伝えていく活動は今後も続けて参ります。

江戸時代の教育の成果
 そのような視点で見ると、江戸時代の教育は素晴らしいものでした。寺子屋で読み書きがしっかりと教えられていて、今の小学生の年代の子が論語や大学・中庸を読み、誦じていました。こうした教育の成果は、数字にも表れています。世界に類を見ない識字率の高さです。当時、都市部では約70〜80%、農村部を含めた全国平均でも60%だったと言われています。国際的に見ても非常に高い数字です。読み書きの教育も江戸時代からしっかりとできていた。それが明治維新以降、先進国になる原動力であったと思います。
 日本民族の精神性を如実にあらわすこんな逸話があります。16世紀半ばにキリスト教の宣教師として日本にやってきたフランシスコ・ザビエルがある村を訪ねた時のことです。ある農民がザビエルに「あなたの言う神がそれほど素晴らしいなら、なぜ私の父、母、祖父母は、神の名を知らなかったのか」と尋ねました。ザビエルは自らの信念から「洗礼を受けていない者は救われない」と答えました。すると農民は「ならばあなたの神は冷たい。私たちの祖先が救われないというなら、その神は私たちの神ではない」「私の両親や祖父母が地獄にいるというのなら、私は喜んでご先祖のもとへ行きます」と言ったのです。この言葉にザビエルは驚愕しました。農民は理屈ではなく心で問い、先祖たちと「共に在る」ことを重んじたのです。ザビエルは次のような深い称賛の言葉を残しています。「私は日本人ほど高貴な異教徒を知らない。彼らは理性と礼節を併せ持ち、そして何より、神の名を知らずとも心に祈りを持っている」。
 日本には日本が育ててきた揺るぎない、敬虔な、そして真摯な生き方が歴史的に伝わってきました。これは学問や教育問題を語る以前の、基盤になるものです。我々宗教者が関わるべきところです。

日本は道徳先進国
 また明治維新以降、我が国は和魂洋才の思想で、わずか十数年で世界の強国に上り詰めました。それを成し得たのは、日本特有の精神的文化と識字率の高さ、つまり寺子屋教育です。そして、子供は天からの授かりものという思いで、社会全体が子育てに関わっていたことだと思うのです。
 戦後は民主化の名の下に、自国の伝統を否定するという動きが出てきました。その結果として道徳の低俗化と個人主義、競争社会が残りました。日本にとって最も重要なのは、技術大国や観光立国ということ以上に「道徳先進国」であるということではないでしょうか。道徳教育は宗教者が尽力すべきところと私は思うのです。
 このように歴史の視点で見ていかなければ、教育の根本的な改革は絶対にできないはずです。こうした改革を学校でできるかと言えば、なかなか難しいでしょう。教育は永続性が大切ですから、同じく永続性が求められる宗教者が立ち上がるべきだと思うのです。布教を目的として一宗旨宗派の教理教学を教えるのではありません。人としての生き方、社会の一員として生きていくということを宗教という観点から学ぶのです。

 現代の五つの課題
 ──特に現代は歴史の視点を忘れてはならないと思います。宗教者として、具体的な改善点についてはいかがでしょうか。
 改革すべき課題として、私は次の五つを考えています。それは「歴史教育」「国語教育」「情操教育」「宗教教育」「文化教育」です。
 
 近現代史の知識不足
 例えば、歴史教育の不備です。近現代史を殆ど教えないことは大きな問題でしょう。近現代史の知識不足は、自身のアイデンティティーの不安定を生み、現代社会を正しく理解するための基盤が欠如してしまいます。ひいては、現在の政治の左右二極化や不安定化、混迷が強まり続けるという状況を生んでいます。
 また、歴史は神話に始まります。歴史学者のアーノルド・トインビー博士は「12、13歳くらいまでに民族の神話を学ばなかった民族は、例外なく滅んでいる」と語っています。神話は文化の源泉なのです。

 国語は文化そのもの
 国語教育については、国語は文化そのものであることが理解されていないような気がします。日本語の音韻の中に文化があるわけです。それこそが我々のアイデンティティーです。言葉の中に人間性がある。これは綿々と受け継がれてきたものであって、個人や今生きている人たちだけのものではない。現代はそういうものをあまりに軽視しているのではないでしょうか。日本語だからこそ伝えられることがある。日本語は世界でも類を見ない言語です。何より文字が5種類あります。漢字の音訓、ひらがな、カタカナ、そしてルビです。現代は敬語が使えなくなってきました。言葉遣いによって調和が保たれるのです。そのような文化は守り伝えていくべきであると思います。
 それから、情操教育です。情操教育ができていないのは、競争主義と知識偏重主義のためです。ただ、教育は優秀なる人材を育てるためにある、と言われます。優秀の「優」は「優しい」とも読みます。相手の気持ちを知り、思いやり気遣いをするということは多様性や寛容性につながります。相手の気持ちを感じるという情操の教育。その為には語彙力、国語力が必要です。

 宗教とは何かという教育
 宗教教育に関しては、戦後は「信教の自由」「政教分離」という言葉が独り歩きして、宗教否定の風潮に陥り、真の宗教とは何かということが分からなくなってしまっています。
 自身を超えた大いなる存在に対して敬虔な心を持ち、それに近づいていきたいと努力をすることが信仰であるということを教える人がいない。人類全体がその原点を理解したならば、宗教戦争は起こらなくなり、より高次へ皆で上がっていこうという努力になるでしょう。そういう教育がなされていないわけです。
 宗教とは何か。仏教、キリスト教、イスラム教の歴史。尽力した宗教者たちのこと、神社とは教派神道とはといった教育が必要です。アメリカのある宗教学者が、「宗教は人間の究極の関与である」と語っているように、学校教育の中でも宗教とはなんぞやということを教えなければならないのです。
 
 神話と文化の教育
 神話教育については本当に大切と思います。古事記編纂1300年(平成24年)を目前にした平成18年、第一次安倍政権の時に教育基本法が改正、平成20年に学習指導要領が改訂され小学校の国語の教科書に神話が載るようになりました。私も平成21年に『読み解き古事記』を出版して、古事記は単なる物語ではなく、人間の人格完成へ向けての先人たちの叡智が語られているということを書きました。
 文化教育も大切です。しかしきちんと教えられていないというのが現状ではないでしょうか。日本は感じる文化であるということ。共に感じあう。だから無言の挨拶もあるし、間を大切にします。多様性を認めるということにもつながります。
 日本の伝統行事が教えられていないことも憂慮すべきことでしょう。お正月、七五三、お盆など、その意味を説明できる日本人がどれほどいるでしょうか。一つ一つの祝祭日に歴史と文化があります。日本人が日本文化を説明できない状況では、すでに文化が滅んでいると言っても過言ではありません。

 宗教者だからこそできる教育
 様々な問題が常態化している我が国は教育の立て直しを真剣に考えなければなりません。日本が道徳先進国であり続けるためにも、戦後に生まれた差別や偏見という垣根を取り払い様々な立場の人達が手を携えねばならないと思います。宗教者も宗教者だからこそできる教育を実践しければならないと思います。


 さかた・やすひろ 昭和37年、禊教宗家の嫡男として生まれる。学習院初等科・中等科・高等科を経て学習院大学文学部哲学科を卒業。同50年13歳で禊教管長職継代を拝命し、同63年神道禊教宗家七代として道統継承宣言をし教主となる。神祇官白川伯王家祭祀を継承する真の禊教の再興のみならず、大和の国風大和民族の霊性の復権、古式祭祀の復興、日本神話の伝承等、精力的に活動している。主な著書に『現代祝詞講』(禊教真派本部刊)、『禊教神葬祭の栞』(禊教真派本部刊)、『みそぎの教え』(禊教真派本部刊)、『おみちづけ教本』(禊教真派本部刊)、『読み解き古事記』(産経新聞出版刊、日本図書館協会選定図書)、『神道みちうた集』(TEM出版)、『教主講話集「寿々風」』(神道禊教本部刊)、『読み解き古事記・文庫版』(産経NF文庫)