神奈川県教育関係神職協議会設立五十周年記念式典

先人の意志を未来へつなげる/神奈川県横浜市

 7月23日、横浜市西区の伊勢山皇大神宮(阿久津裕司宮司)において、神奈川県教育関係神職協議会設立五十周年記念式典が開催された。当日は同会会員をはじめ、計35人が参集。正式参拝の後、第一部の記念式典で五十周年を厳かに祝った。第二部では、佐久大学講師で歌人(麓短歌会主宰)の風早康惠氏による講演が行われ、その後、伊勢山ヒルズにて記念祝賀会が開かれた。

 午後1時、参加者が拝殿の所定の位置に着座する中、斎主の安達真治権禰宜と祭員が参進し、太鼓の音とともに正式参拝が始まった。修祓の儀に続き、斎主が大祓詞を奏上。初穂を奉献し、巫女が「伊勢山の舞」を奉奏した。金子善光会長、風早康惠氏、神奈川県神社庁の石川正人庁長、全国神職関係協議会の鈴木俊子副会長が玉串を奉って拝礼し、正式参拝は滞りなく終了した。

 安達権禰宜は挨拶に立ち、「伊勢山皇大神宮の御祭神は天照皇大神である。今日は大変暑いが、太陽の神である御祭神のご神徳を感じ有難く思う。本殿は伊勢神宮内宮の建物をそのままいただいたもので、完成時には池田前宮司が『浜っ子の象徴ができた』と喜んでいた」と述べた。

 記念式典第一部は渡邉のぞみ氏が司会を務める中、中村紀美子副会長の開会の辞で始まり、神宮遥拝、国歌斉唱、敬神生活の綱領唱和と続いた。金子会長は式辞で、「50周年ということで長い歩みであった。全国の教育関係神職協議会は本当によく頑張っている。神奈川県でも、これからますます力を尽くしていきたい」と述べた。

式辞を述べる金子善光会長=7月23日、神奈川県横浜市の伊勢山皇大神宮

 来賓として登壇した石川庁長は、「私は國學院大學で15年間、兼任講師を務めた。楽しい思い出ばかりで、その期間は私にとって貴重な財産である。この財産を神社界のために生かすことが大事であり、今の時代に何ができるかを考え、皆さんにも力になっていただきたい」と語った。

来賓の挨拶をする石川正人神奈川県神社庁長=7月23日、神奈川県横浜市の伊勢山皇大神宮

 続いて鈴木副会長は、「全国教育関係神職協議会は、教育界の崩壊を憂い、日本の子どもたちや神道の精神高揚を願った先輩方によって、昭和35年8月7日に設立され、今年で65周年を迎えた。国の内外で様々なことが起こり、教育界も深刻な問題を抱えている。そうした中で力を発揮できるのが神職であり、未来を担う子どもたちのために尽力していきたい」と述べた。

 会場である伊勢山皇大神宮の阿久津宮司は、「我々神職は被災地に対する思いを持ちつつ、これから始まる遷宮を福島の皆さんや教育関係者、生徒とともに成功に導くことが大切である。今回このような形で皆様がお越しいただいたことに、歓迎の意を表したい」と語った。

 聖寿万歳奉唱の後、小野和伸副会長が閉会の辞を述べ、式典が締めくくられた。

講演をする風早康惠氏=7月23日、神奈川県横浜市の伊勢山皇大神宮

 第二部では、風早康惠氏が「昭和天皇御製にみる古典の修養と再生」という題で講演を行った。要旨は以下の通り。

 御製とは何かを考えると、私たちが詠む歌とは位相が異なるということだ。海外では、民のために歌を詠むという発想はほとんど見られない。天皇陛下には「支配する者」「支配される者」という関係はなく、陛下からは愛をいただき、国民は尊敬と敬愛をもって応えるという関係がある。

 陛下は人民を愛護し、良きことが訪れるよう願って言葉を紡がれる。それは日本という国に備わった、際立って良き個性であり、そうした言葉が循環することで「弥栄」が生まれる。その仲立ちをするのが「言葉」であり、その中でも御製は最も優れたものである。

 「予祝」とは、今困難があっても先に良き未来を信じ、それを引き寄せる祈りである。歴代天皇の御製には予祝的なものが多い。陛下の御心には強い愛の意志があり、それゆえにそれが実現していくのである。

 太平洋戦争後、昭和天皇は日本全国を巡幸された。過酷な日程の中で御製を詠まれ、人々の中に入って行かれたことで、国民は大きく励まされた。御製は復興と予祝の象徴でもあった。

 万葉集には雄略天皇の歌が巻第一の冒頭に収められており、御製の記録として最初のものとされている。美しい乙女に語りかけるその歌は、人の命の弥栄と自然の美の永続とを予祝するものであった。昭和天皇もまた、巡幸の際にこのような歌を念頭に置かれていたのだろう。

 昭和26年11月、御年50歳のとき、滋賀県の醒井養鱒場を訪れた際には、「谷かげに のこるもみぢ葉 うつくしも 虹鱒(べにます)をどる 醒井(さめがい)のさと」(御製『醒井のさと』)を詠まれた。醒井といえば倭建命が連想される。中山道の醒井宿にある地蔵川には清らかな水が流れ、『古事記』には倭建命がこの地の「居寤清水(いさめのしみず)」で傷を癒したという記述がある。

 昭和39年、御年63歳のときに佐渡へ行幸された際には、「ほととぎす ゆふべききつつ この島に いにしへ思へば 胸せまりくる」(御製『佐渡の宿』)を詠まれた。佐渡郡真野町の順徳天皇火葬塚で拝礼され、また真野宮にもご参拝された。

 承久の乱(1221年)に敗れた順徳天皇は、佐渡へ配流され、21年後(1242年)に同地で崩御された。この御製には、順徳天皇が詠まれたと伝わる、「なけば聞く 聞けば都の 恋しさに この里すぎよ 山ほととぎす」の面影が感じられる。また、中国の古典『華陽国志』には、ほととぎすに姿を変えたとされる杜宇(治水・農業に尽くした王)の伝説が記されている。こうした背景を踏まえると、昭和天皇がこの御製に込められたのは、順徳天皇を偲ぶ想いとともに、「農事によって国を興す」という誓いでもあったと考えられる。

 さらに、昭和8年、御年32歳のときには、「天地の 神にぞいのる 朝なぎの 海のごとくに 波たたぬ世を」(御製『朝海』)を詠まれた。昭和天皇は、明治天皇の御製「四方の海 みなはらからと 思ふ世に など波風の 立ちさわぐらむ」(『四海兄弟』、明治37年)を常に懐中に携えておられた。近衛文麿の『近衛手記』には、昭和16年の御前会議においてこの御製を御読み上げになられたことが記されている。天皇陛下は、「日本と諸外国を隔てるために海があるのではなく、繋ぐために海があるのだ」と仰せになりたかったのであろう。

 神職の皆様も、陛下のように歌を詠まれる方々であると思う。神と人との仲を取り持ち、炎天下でも御奉仕され、氏子を愛護されている。その姿にこそ、氏子が崇敬をもって応えるのであり、皆様の声と言葉はまさしく同じ位相なのである。

「伊勢山の舞」を舞う巫女=7月23日、神奈川県横浜市の伊勢山皇大神宮