天海僧正と徳川家康 江戸幕府創設を支えた宰相

江戸東京の宗教と文化(5)
宗教研究家 杉山正樹

慈眼大師像(模本)=出典:国立文化財機構所蔵品統合検索システム

 徳川家康が江戸幕府を開いた背景には、優れた碩学たちの支えがあった。臨済宗の以心崇伝、朱子学者の林羅山、そして天台宗の天海僧正である。崇伝、羅山、天海はそれぞれ異なる立場をとりながら、江戸幕府初期の土台を築いた。三者には微妙な緊張関係、勢力争いが存在していたが、このバランス感覚が徳川政権を支える宗教的・思想的エンジンとなり、260年に亙る太平の世を可能にした。
 三者の中でも特に異彩を放つのが南光坊天海(1536?〜1643)である。天海は、家康の最も信頼が厚い政治顧問、文化政策立案者であり都市計画者であった。家康歿後は秀忠、家光の参謀として近侍し幕政に多大な影響を与えた。天海の後半生には確実な資料が残るが、前半生は不明な点が多い。『東叡山開山慈眼大師縁起』には、「俗氏の事人のとひしかど、氏姓も行年わすれていさし知ず」とあり、自らの出自を弟子達に語らなかったとある。自身の過去を語るのを頑なに拒んだ天海には、足利将軍落胤説、姿を変えて生き残った明智光秀という異説もある中、通説とされる前半生の概略を記せば以下の通りである。
 天海は、陸奥国大沼郡高田(福島県会津高田)の生まれで蘆名氏の係属と伝わる。幼少より聡明で仏法を信奉、十一歳のとき出家授戒し隋風と号す。十四歳より各地の学匠を尋ね遊学の途に上り、比叡山にて天台宗門の奥義を修得。途中、母の病のため帰郷するが再び叡山に登りその間、足利学校にて禅と儒を学ぶ。織田信長の叡山焼き討ちの時期に遭遇し下山、武田信玄に招かれ甲州に赴くこともあったという。
 天正十八年(1590)、武蔵国入間郡仙波の無量寿寺(現在の川越喜多院)の僧正豪海に師事、名を天海と改めた。その後、豊臣秀吉の小田原攻めに功のあった蘆名氏の懇請に応じ、江戸崎不動院の院務にあたる。この他、豪海入寂後の無量寿寺住職、下野国芳賀郡久下田新宗光寺などの管理を兼帯した。慶長十二年(1607)、比叡山復興について大衆論争の裁断に際して、徳川家康の近侍医であった施薬院宗伯(やくいんそうはく)の推薦を得た後、家康より比叡山東塔・南光坊への在住と探題執行を命じられる。「天海僧正は、人中の仏なり、恨むらくは、相識ることの遅かりつるを」。家康は、初対面の天海の人物と学識を高く評し遅すぎた出会いを嘆いたという。
 天海僧正の最大の事績が、家康歿後の神号の制定である。元和二年(1616)、崇伝が主張する「明神号」を退け、「東照大権現」の勅許を得て「山王一実神道」により家康を日光に祀る。家康は、「天下泰平」をもたらした神となり、東照宮が全国各地に勧請される。江戸幕府は「神意に基づく政権」の正当性を確立し、「パクス・トクガワーナ」が実現する。
 家康が開府した当時の江戸は、平安海進の影響で海岸線が大きく内陸に入り込み、とめどなく葦が生い茂る湿地帯であった。河川は潮の満ち引きで海水が混じることも多く、作物の育成には不適、良質な飲用水を得ることも困難であった。僅かな寒村・寒漁村が点在する辺境の地に、治水による大きな可能性を見出していた家康の慧眼であったが、小田原でも鎌倉でもない、当地を居城先とする決め手となる助言をしたのが、天台密教の大法を修めた天海であった。

ボードワン博士像(上野恩賜公園内)


 天海の提案によって築かれた東叡山寛永寺は、京都御所の鬼門(北東)を護る比叡山延暦寺を模して建立された江戸城鎮護の東の比叡山である。山号は延暦寺に倣い創建時の元号を用い、不忍池の中之島には琵琶湖と竹生島を転写した弁財天を祀る。寛永寺は、徳川幕府の菩提寺として繁栄を遂げ、最盛期には日光山輪王寺、比叡山延暦寺を支配下に置く天台宗の事実上の総本山として機能した。境内地は35万5千坪に及び、五代将軍綱吉の代には、東都随一の根本中堂(現、東京国立博物館前噴水広場付近)が落成、寺領は大名並みの1万2千石を有した。
 慶応四年(1868)の上野戦争では、境内地を彰義隊が本陣としたことから、官軍の砲撃を受け伽藍の大部分が焼失、寛永寺は灰燼に帰し境内地は荒涼たる焼野原となる。明治政府は、土地を没収し跡地に陸軍病院・陸軍墓地を検討していたが、長崎医学校教官オランダ人医師・ボードワンの提案により決定が見直され、上野恩賜公園として生まれ変わる。その後、様々な文化施設が集積し、現在の上野公園の原型が出来上がる。関東大震災では、50万人もの被災民を受け入れたという。江戸の時代より桜の名所として賑わいを見せていた上野山、江戸・東京の鎮護地として今もなお、多くの観光客に憩いの場を提供し来し方行く末を見守り続けている。

(2025年6月10日付 824号)