モンゴルの青少年を育てる
連載・信仰者の肖像(6)
増子耕一
笹目恒雄(1902〜1997)

笹目恒雄は晩年、東京・奥多摩にある大岳山で修道生活を送り、自叙伝『神仙の寵児シリーズ』(8巻、山雅房)を書き上げた。刊行されると読んで感動したという青年たちが訪ねてきた。
筆者もその一人で、会いに行ったのは1986年初夏のこと。そこには大岳山荘という山小屋があり、弟子が運営していた。隣が「素賓庵」という庵で、笹目の書斎であり応接室でもあった。
その東側には多摩道院の聖殿が完成していた。道院は中国が発祥地で、キリスト教、仏教、道教、回教、儒教は同根で、合流して大道に帰るという信仰を持っていた。祭壇にはそれぞれの聖人が祀られていたが、中央には宇宙の創造神が置かれ、「太乙老人」あるいは「至聖先天老祖」と呼ばれ、「青玄宮一玄真宗三元始紀太乙老祖」と尊称されていた。
自叙伝の「煉獄編」は日本の敗戦期、満州でソ連兵にとらえられ、シベリアに送られ、そこで体験した出来事が綴られているが、他の巻は20代、30代を過ごした内モンゴルを舞台にしたもの。
笹目は1902年、茨城県に生まれた。両親を幼少期に亡くし、少年時代は叔父が住職を務める東京の天台宗目黒不動尊で過ごした。中央大学に入学すると勉学と並行して鎌倉の円覚寺で参禅し、東大哲学科の聴講生ともなってシャーマニズムに関心を寄せた。
その調査のために1924年夏、満州旅行に出かけた。大連から乗り込んだ列車の中で黒衣の道士に会い、招かれて白頭山に登ると天池のほとりで呂神仙という仙人が待っていた。
仙人は笹目のことをよく知っていて、彼の天命と将来体験する50年間の人生を予示する。最初の使命は「北西の方向にいる遊牧民を救済する手段を講じること」。3年前、ウランバートルで共産革命が起きていて、内モンゴルも安全ではなくなっていたからだ。
笹目は山を下るとホロンバイルの平原を馬で旅し、西に向かい、ジンギスカンの故郷の山バヤン・オーラに登り、南下してサンベーズを経て東に戻った。
サンベーズは国境の外、外モンゴルだったが、ここに嫁いでいたホロンバイル・シンバルホ右翼旗の旗長である群王の姉、ジャムスルン夫人に会う。夫人は笹目の天命を聞くと「拝天母子」のちぎりを求め、笹目は養子となる。
帰路、笹目が練った計画は、優秀な青少年たちを日本に連れてきて教育すること。翌年、横浜に戴天義塾を設立、留学生6人を受け入れた。義塾はその後、東京に移し、8年間で36人を育てた。彼らは日本語を学び、専門学校や大学に通い、卒業すると故郷に戻っていった。
1931年の満州事変後、笹目は舞台を蒙彊に移した。ここで徳王を立てて蒙彊自治政府をつくり、33年南京政府の承認を得る。笹目は徳王の私設顧問となり、バンチェン・ラマからホビルガン(ラマ教博士)の称号を授与された。そして宗教をもとにした彼らの国をつくることができるのか、探るために奥地へと旅する。
今日、中国の領土となった内モンゴルでは、1947年以後、徹底した宗教弾圧が行われてきた。ラマ教の僧侶や、日本人と交流したり満州国で働いた人々も粛清の対象になった。笹目の体験は現代史を考える無視できない業績なのだ。
(2025年6月10日付 824号)