葵祭「路頭の儀」、「社頭の儀」
平安絵巻が都大路を進む
勅祭の古式ゆかしい伝統と所作

京都三大祭りの一つ「葵祭」が5月15日に催され、平安装束に身を包んだ祭列が京都市上京区の御所から両賀茂社へと練り歩いた。都大路の巡幸は「路頭の儀」と呼ばれ、両賀茂社においては、賀茂大神へ五穀豊穣と国家安泰の祈りを捧げる神事「社頭の儀」が斎行された。祭の正式な名称は「賀茂祭」で、両賀茂社とは京都市北区の上賀茂神社(賀茂別雷〈かもわけいかづち〉神社)および京都市左京区の下鴨神社(賀茂御祖〈かもみおや〉神社)で、いずれも世界遺産である。
祭列の「本列」は、勅使である「近衛使代」を中心とし、勅使は銀面を着けた白馬にまたがる。続いて藤の花などで彩られた牛車が車輪をきしませながらゆっくりと進む。
本列に続くのが平安衣装で着飾った「女人列」で、主役は専用の輿「腰輿(およよ)」に乗った「斎王代」。斎王代は、かつて神様の御杖代として天皇の娘から選ばれた「斎王」に代わって、京都にちなむ未婚女性から選ばれる。今年は、東京芸術大学大学院で邦楽を専攻する山内彩さん(25)が、第67代斎王代に選ばれた。
約500人からなる1キロの祭列は、京都御所の建礼門前から進み出て、爽やかな緑風の中、下鴨神社を経て加茂川の堤を北上し、上賀茂神社へと約8キロを進んだ。下鴨神社の糺の森や、賀茂川沿いの並木からは新緑の木洩れ陽がそそぎ、沿道の観客はカメラやスマートフォンを手に平安絵巻を楽しんだ。
葵祭で最も重要な神事は「社頭の儀」で、勅使の携えた天皇の御祭文を両賀茂社の宮司が賀茂大神に取り次いで、その御神宣を勅使に返して授ける。宮司は、跪いて神宣としての「返祝詞(かえしのりと)」を申し上げて手を拍つと、勅使はそれに応じて柏手(かしわで)を返す。最後に宮司が、神前から神禄(しんろく)の葵を、勅使に授ける。この「神宣」と「返祝詞」によって、天皇からの御祭文が賀茂の神様に無事届けられた証しとなる。この点葵祭は、神の依代としての神輿などが巡行する一般の祭とまったく異なった意味を持つ勅祭であるため、古式ゆかしい伝統と所作が保たれてきて、その魅力となっている。
今年、下鴨神社では、俳優の藤岡弘、さんが参列者代表として参加し、勅使が御祭文を奏上した後に、舞殿の前に進んで本殿に向かって深々と一礼を捧げた。藤岡さんは武道家でもあり日本文化に造詣が深いことから、下鴨神社が参拝を依頼していた。
斎王代の山内さんは、重さ20キロ以上の十二単をまといながら笑みを絶やさず、一日中続く御奉仕をつとめた。出発地点である建礼門前の参道には、多くの外国人を始め溢れんばかりの観衆が詰めかけた。コロンビアから叔母とともに見に来たインターンの医学生(26)は、開始2時間前から建礼門前で座り込んで待っていて、「祭列はキュートで美しく、1500年も前に始まったお祭りとは思えない」と話していた。この日の人出は3万3000人だった。
祭祀の起源は、太古において上賀茂神社の祭神である賀茂別雷大神が背後の神山に降臨されたことにちなむ。また欽明期(540〜572年)において、鈴をつけた馬に人が猪の頭(かしら)を被って走った神事に由来するともいわれる。平安時代、賀茂祭は勅祭となり、行列を見ようと京の内外から人であふれかえった。祭儀に関わる全ての人、牛車、牛馬に至るまでハート形の葉をした二葉葵を挿し飾ることから、江戸期に葵祭と呼ばれるようになった。その後、一時中断していたが、明治天皇が勅祭として復興され、戦時には路頭の儀は中断されたものの、昭和28年(1953)に今の形で復活した。