江戸幕府による儒教の受容

江戸東京の宗教と文化(4)
宗教研究家 杉山正樹

林羅山像(模本、京都大学貴重資料デジタルアーカイブ所蔵)

  キリスト教を厳しく禁じた江戸幕府は、寺請制度を通じた宗教と民衆の動態を統制する一方、社会秩序の維持安定を目的として、儒教を積極的に受容、これを政治理念の根幹に据えた。キリスト教禁教政策と寺請制度の運用、そして儒教思想の導入は、幕府のイデオロギー政策の三本柱となり、相互補完的に機能して江戸泰平文化260年の世を築く。

 幕府が受容した儒教は、宋代に朱熹が体系化した朱子学であった。徳川家康が儒学者林羅山を重用したことで、朱子学は幕府公認の思想となる。朝鮮の儒学者・姜沆(きょうこう)と交流があり、家康に『貞観政要』を講じた近世儒学の祖・藤原惺窩に師事した羅山は、惺窩の推挙で徳川家康に拝謁、以後、秀忠・家光・家綱の将軍四代に仕える。幼い頃に建仁寺で修行した羅山であったが、僧籍には入らず朱子学に傾倒。「五行倶に下る(1目で5行ずつ読む)」という速読法を実践し、然も内容はすべて覚えているという俊才で惺窩を驚かせた。羅山の子孫は、林家として名を冠し、江戸末期まで大学頭を世襲する。新宿区市谷山伏町には、儒葬形式の林氏墓所が保存され、幕府の教学を司った旺時を偲ばせる。

 大義名分論・君臣父子の別を中心となす朱子学の思想は、上下の秩序、忠孝・礼節を体現する体系的な思想であり、武士の倫理観や封建的な支配体制を醇化する上で極めて有用であった。幕府は、武士が儒学を修めることを奨励し、儒教的な価値観をもとにした道徳教育や官僚養成を進めた。政治と宗教そして倫理が密接に結びつくことで、江戸幕府のイデオロギー政策は、民衆統治への強い説得力を獲得する。社会全体が「家」を単位とした秩序の中に組み込まれ、儒教倫理を基盤とした道徳観と仏教儀礼が、江戸社会の精神的支柱となるが、この精神構造は現代にも引き継がれている。

 羅山は、幕府の信頼のもと政治・外交・儀礼に関わる多彩な御用に従事した。一方、「湯武放伐論」「方広寺鐘銘事件」への牽強付会な勘文への批判、「世儒剃髪弁」「曲学阿世儒者」といった厳しい評価も存在する。ヘルマン・オームス(1937〜2023) の「近世日本のエンサイクロペディスト」=百科の学術に広く関心を向けた近世江戸の知識人=の評価が、最も正鵠を得ていると言えよう。

 京都鎌倉五山の禅僧達も儒学を学んでいたが、教養の範囲を超えるものではなかった。近世の日本に儒学定着の端緒を拓いた藤原惺窩、その門人たる羅山がこれを幕府に展開、孔子が理想とした「仁礼」とはやや趣が異なるが、「居敬」の精神を中核に抱く教学の国家が誕生する。仏教を排斥し、神仏習合思想を否定した羅山の思想はその後、神儒一致が模索され、垂加神道を提唱した山崎闇斎など多くの儒家神道家を輩出、やがて国学の四大人の誕生を見る。また伊藤仁斎や荻生徂徠など古義学・古文辞学の開花は、儒教の教えを広く庶民に汎化することを可能にした。

 「官学」として幕府を支えた朱子学の振り子は、江戸末期に至り反対に振れる。幕政改革の混乱と異国船来航による外交的脅威に対し、老中・松平定信は「大政委任論」で巻き返しを図るが、安政五年(1858)、幕府は天皇の勅許を得ない「安政五カ国条約」の締結を急ぎ「大義名分論」を侵してしまう。幕府は、この諸策に反対する者達を投獄(安政の大獄)するが、もはや倒幕の流れを押し止めることはできなくなっていた。

 寛永七年(1630)、羅山は三代将軍家光から忍岡の地(現在の上野恩賜公園・不忍池東方)に屋敷を賜り、学問振興のための私塾(書院と文庫)を設立した。その翌々年、家光の叔父で儒学を好んだ尾張藩主徳川義直が、儒教祭祀を行う孔子廟「忍岡聖堂」を寄進する。

 五代将軍綱吉の代となり、幕政の中心である儒学の聖堂が、林家の私塾かつ寛永寺敷地内に存在することが詮議され、元禄三年(1690)、現在の東京都文京区湯島に移築されたのが「湯島聖堂」の起源である。第十一代将軍家斉期の「寛政異学の禁」により「湯島聖堂」は、幕府直轄の学問所となり以降「昌平坂学問所」(昌平は孔子の生地である「昌平郷」に因む)と改称され、官学府としての威容が整えられた。

 「昌平坂学問所」は明治新政府の接収後廃校となり、昌平学校・医学校・開成学校が合併され「大学校」に改称(医学校と開成学校は東京大学の前身となる)。明治四年に「大学校」閉鎖の後は、構内の界隈に文部省、湯島聖堂博物館(東京国立博物館の前身)、東京師範学校(筑波大学の前身)、東京女子師範学校(お茶の水女子大学の前身)、書籍館(国立公文書館の前身)が設置される。「湯島聖堂」の維持管理は現在、公益財団法人斯文会が行っている。

 儒学の原郷・本郷湯島は、日本近代教育発祥の地として生まれ変わり、東京科学大学湯島キャンパス内にそれを頌徳する碑が建てられている。

(2025年5月10日付 823号)