フランシスコ教皇が遺した成果と今後
「南」に開かれた教会、「平和」の発信
元駐バチカン大使、文明論考家 上野景文氏に聞く
フランシスコ教皇が先月21日に死去した。アルゼンチン出身で、初めて中南米から選出された教皇として、教会改革や外交などに尽力してきた。教皇が遺した成果と今後のカトリックの行方について、元駐バチカン大使で文明論考家の上野景文氏に聞いた(インタビューは5月2日)。(田中孝一)
「ひとつ」の教会であり続ける
最初に、ローマ教皇、バチカンに関する基本事項を2点、確認しておきたい。
先ず、カトリックは2000年にわたって統一性、一貫性を維持しながら、世界大の広がりを有して来ており、14億人の信者を擁する。これは「異常なこと」だ。
一般に、宗教は、後継者争いやイデオロギー論争で内紛や分裂を繰り返す。それが「常態」。たとえば、プロテスタントでは、世界に宗派がいくつあるか誰にも分からない。日本では、文化庁に届けられている宗教法人が18万に及ぶ。元は一つの法人だったが、現在は複数に分かれているケースが少なくない。こうしたことは珍しいことではない。
その中で、カトリックだけが、2千年の継続性と世界性をベースに、「ひとつ」の教会であり続けている。何故それが可能なのか? それは、「教皇」という「装置」を置いているからと私は見ている。教皇の絶対的な権威と権力によって統治してきたからということだ。歴代の教皇は、聖ペテロ(初代教皇)の後継者ということで、キリストがペテロに命じた信徒の世話をせよとの神聖な役割を代々引き継いできた。教皇の権威の源はそのキリストの言葉にある。他の宗教、宗派には、教皇に匹敵する装置(システム)はない。例えば、正教会には国ごとのトップはいるが、国を超える教皇のような装置はない。
教皇を、機構・装置として見ると、それなりの合理性・論理性が見て取れる。ぼんくらな教皇、怪しげな教皇はいたが、個人という要素を横におけば、こう言える。教皇という装置がなかったら、カトリックはとっくに何十もの宗派に分裂していたはずだ、と。私はこれを「教皇本位制」と呼んでいる。これがカトリック、バチカンを見る時の大前提のひとつだ。
「バチカン」の意味
もう一つ。用語の問題。バチカン、否、「バチカン市国は世界最小の独立国でありながら、大変強力な影響力がある」と言う人がいるが、基本への理解を欠いた表現だ。早い話、私自身、厳密に言えば、バチカン市国(以下、VCS)に派遣された大使ではなく、教皇聖座(Holy See、以下HS)に派遣された大使であった。国連やUNESCOに参加しているのも、VCSではなく、HSなのだ。
このHSは、2000年にわたり、教皇を補佐してカトリック世界を統治(governance)してきた機構であり—敢えて言えば、「カトリック・ホールディングス」という存在であり、カトリック世界の最高総司令部である。このHSには、カトリック世界を統治するための30余の役所(司法機関を含む)が存在して、教皇を支える。教皇は、諸外国との間で外交活動を行う。これを手掛けるのもHSだ。外交は、主権国家間で行われるものであることに照らせば、HSは主権国家と見做し得る訳だ。否、主権国家なのだ。ところで、HSは教団を母体とする国家である。中世にはマルタ騎士団、ドイツ騎士団などを母体とする類似の国家があったが、そうした特殊国家は、その後、HSを除き消滅した。HSは、中世から生き残った前近代的な形態の国家ということになる。
では、VCSとは何か。実は、イタリア統一の過程で新興国イタリアが、それまでイタリア半島の三分の一を占めていた教皇領を「奪い取った」ことから、怒った教皇はバチカン宮殿に閉じこもり、その後約60年にわたり、イタリアと「絶交」した(=ローマ問題)。1929年に至り、HSはイタリアと協定を締結、これにより、バチカン宮殿をベースとするVCSが成立した。2000年のカトリックの歴史の中で、この時初めてVCSなるものが登場したのである。このVCSは、明確な領土を持たないHSに、国家としての体裁を与える「容器」としてつくられた。簡単に言えば、VCSは建物(宮殿)、庭園、美術館を管理している不動産管理局に過ぎない。つまり、その役割は、administration(管理)にとどまり、governance(宗務、外交)に関与することはない。ゆえに世界政治とは結びついていない。世界的役割もない。先に引用した発言に即して言えば、世界的影響力を持ち、世界的存在であるのは、VCSではなく、HSだということだ。また、HSが2000年の歴史を持つのに対し、VCSは90年に過ぎない。
ところで、世間がバチカンにつき云々するとき、その7〜8割はHSに関するものだ。VCSではない。ただ、HSと言うと、国名としての実感が乏しいため、日本を含む各国のジャーナリズムではほとんどの場合、HSについて語る場合でも、HSと言わず「バチカン」と書いている。HSを口にする人は、余程のキザか、オタク的変人であろう。バチカンには、HSの通称としての側面がある。HSとVCSの違いは、とても分かりにくい。共同通信のデジタル版である47NEWSに書いた拙文「法王、バチカンについておさらいしよう」(2019年9月13日)を参照願いたい。
謙虚な姿勢と質素・清貧
では、本論に移ろう。2013年に選出されたフランシスコ教皇は、中南米からの初の選出、1300年ぶりにヨーロッパ以外からの選出であったこと、600年ぶりに(死亡ではなく)退位した教皇の後を継いだこと、イエズス会出身者としては初の教皇だったこと、バチカン官僚としての経験がなかったこと(=バチカンを中心とする同心円をイメージすれば、中心でなく、「周辺」の出身であったこと)など、「異例」づくめだと騒がれた。
先ずそのひととなりについて言えば、ブエノスアイレスの大司教時代から、一般の庶民にも親しく話しかける性格で、決して偉ぶることなく、謙虚な姿勢を貫いたこと、奢侈・贅沢を嫌い、質素・清貧を好む傾向があったこと(=教会からあてがわれた公用車を嫌い、バスでの通勤を好んだ)などが有名だ。その姿勢は、教皇になってからも貫かれた。
その上で、フランシスコ教皇が目指したもの、取り組んできたことにつき、5点お話しする。
バチカン中心主義からの転換
先ず第1は、「南」に開かれた教会を標榜したこと。ヨーロッパでは教会を離れる人があとを絶たない中、ヨーロッパ中心主義が強く、外の世界へ目を向けないバチカンの現状に危機感を抱いた教皇は、改革の必要性を強調した。すなわち、それまで「北」しか向いていなかった、いわばエリート志向の教会は、「南」に開かれた教会、虐げられた人たちや貧困層に寄り添う教会になるべきだと訴えた。同時に、聖職者中心主義を改め、信者中心主義に転じよと訴えた。更に、バチカンだけで物事を決めすぎる(=バチカン中心主義)と批判し、もっと周辺地域の声を反映せよ(=分権化)と訴えた。加えて、教会内で女性登用に努め、また、虐げられた人に寄り添えという思想を敷衍し、離婚者やLGBTの人達に対してもミサで締め出すようなことは改め、寛い心で接しなさいという点を打ち出した(保守派からは大きな反発があったが)。
こうした教皇の意思が最も顕著に現れたのが人事だ。HSの究極の意思決定機関は、教皇を選出するコンクラーベだ。従来のコンクラーベでは、枢機卿(枢機卿というのは職名ではなく称号)の5・5割程度がヨーロッパ人であった。つまり、ヨーロッパ出身者が選出されやすいシステムとなっていた。これに対しフランシスコ教皇は、「周辺」をキーワードに人事を進め、従来枢機卿が当然視されていたミラノやベニスの大司教を枢機卿にせず、従来枢機卿に縁のなかった「南」の大司教を枢機卿にした。そうしたことが繰り返された結果、今度のコンクラーベではヨーロッパ人の割合が4割程度に減じる一方で、モンゴル、トンガ、ミャンマー、ハイチなど、仏教国、イスラム教国出身者を枢機卿にした。このように、教皇は、「もっと南に目を向ける教会であるべきだ」という強い意思を示した。今風に言えば「グローバルサウス」志向と言える。教皇は、世界がグローバルサウス云々を言い出すよりずっと前に、その流れを先取りしていたということだ。
以上要するに、人事を含め、ヨーロッパを向いていた教会から、世界に目を向ける教会に変えようとした。あるいは世界各地からバチカンのガバナンスに参加できるように物事を動かし始めた。中世から変わっていない体質をどう現代に合わせるか。全体を中央集権型から改めていくことを含めて、大きな変革を目したということだ。言うまでもないことながら、こうした教皇の改革については、既得権を奪われたヨーロッパの高僧、更には、保守派から、大きな反発や抵抗があった。が、これらの諸点は、フランシスコ教皇の取り組みの中でも、最も大きなものであったと見ている。
アフリカとアジアへ
第2に、今述べた点を、別の観点(「市場獲得」という視点)から言おう。20〜30年というタイムスパンで見た場合、カトリックが存亡をかける場所は何処になるかという点だ。答えは、ズバリ言う、アフリカとアジアに賭けるのがいいということだ。
つまり、西ヨーロッパでは宗教離れがかなり進んでいる。特にフランス、スウェーデン、チェコなどは顕著だ。近代文明、啓蒙思想、モダニズムが教会の影響力を侵食してきたわけである。そうした中で、信徒が増えているのはアフリカ、次がアジアだ。特に、人口規模が大きい中国とインドが重要になって来る。だから、将来を見据えて「南」に肩入れをせよとの教皇の見立てには、理に適ったところがある。そういう計算が、教皇の脳裏にはあるのであろう。
中国との間では、HSは司教の任命権を巡って対立して来た。神学的に言えば、教皇の任命した司教は神から特別のパワーを与えられるが、中国政府から任命された司教は、そのようなパワーを得ることが出来ない。バチカン的には、「偽の聖職者」ということになる。歴代の教皇は中国政府と交渉してきたが、中国側は国内にある教会に外国勢力である教皇が人事権を行使するのは内政干渉であるとして長く認めてこなかった。それが2018年10月に、中国が任命した司教についても中国とバチカンの両方が任命した形を取ることで、妥協が成立した(2年毎延長の暫定協定)。昨年10月にはそれを4年間延長することで合意した。批判は少なくないが、教皇の大きな功績と言えよう。
なお、司教の任命権というのは、昔から対立の種となっている。たとえば、フランスでは、ナポレオンがカトリック教会を国有化し、司教を皇帝が任命するようにした時期があった(その後、任命権を返上したが)。中国がやろうとしたことは、ナポレオンと同じ発想に立つ。
ただ、中国はカトリック教会の国有化まではしていない。1200万人とも言われるカトリック教徒の半数を占める地下教会の信徒が教皇に従いたい、繋がっていたいとするのは想像に難くない。が、実は、あとの半数を占める公認教会の信徒でさえ、北京寄りとのイメージが強いが、教皇に親近感を持ち、教皇との繋がりを重視しているようだ。このため、北京政府は、ローマとの関係をむやみに切ることは得策ではないと計算しているようだ。それどころか、北京側は暫定協定で、教皇の権威を半ば認めてしまった。宗教の「中国化」をはかるべしと標榜するかれらが、基本をまげてまでバチカンに歩みよったことは驚きであった。バチカンから見れば、北京に妥協させ、暫定協定にこぎつけたことは、保守派からの批判はあるが、意味のある成果であったと言えよう。
「平和のメッセンジャー」
第3は、教皇の大きな役割の一つが「平和のメッセンジャー」であるという点。歴代教皇は、貧困、軍縮、非核化、和平、環境問題、移民などのイシューに関し、繰り返しメッセージを発信してきた。フランシスコ教皇になって、非核化、環境、和平(近時は、ウクライナやガザの紛争に和平を求めるメッセージを強く発出)、移民などの問題につき、よりアクティブになったと感じられる。教皇のメッセージ力は、カトリック系メディアだけでなく、国際有力メディアが大きく伝える。それだけに、大きなインパクトを持つ場合がある。加えて、フランシスコ教皇は、複雑なことを簡単明瞭に語ることにたけている。そういうことを含めて、ある種のカリスマ性が教皇の人気を支えた面もある。
移民問題については、教皇は移民に寛大な姿勢で臨めとの姿勢であった。そのため、ヨーロッパ各国が移民に門を閉ざし始めた時期には、イタリアを含めてこれを強く批判した。アメリカによる移民の強制送還についても、最悪とのメッセージを発し、トランプ政権を強く批判している。
宗教間対話
第4は、宗教間対話。フランシスコ教皇は、特にイスラムとの関係を含め、宗教間対話にも熱心であった。そもそも、教皇が育ったブエノスアイレスは、ユダヤ系、イスラム系の人が少なくない。かれらには、子供の頃から接しているから、違和感はなかったのだろう。ブエノスアイレスの大司教を務めている時から、他宗教と対話するのは自然のことだったようだ。
フランシスコ効果
最後に、「フランシスコ効果」という点につき述べる。前教皇ベネディクト16世の時代、西欧を中心に、カトリック人口は頭打ちであり、バチカン詣での数も減り気味であったが、フランシスコ教皇になって、バチカンへの来訪者は盛り返すようになった。カトリックだけではなく、他宗教、他宗派の人々の間でも、教皇は世界的に人気がある。アメリカでも、多くの一般の信徒からは好感を持たれている(司教は、保守派が6割を占めており、批判派が少なくないが)。教皇の出現は、国際社会一般に大きなインパクトを持った。次の教皇(誰であれ)が、フランシスコ教皇と同じくらい高い人気を得ることは、そう簡単ではない。
これらの改革は、道半ばのものが多い。また、保守派からの抵抗、反発は中途半端でない。次期教皇が、フランシスコ教皇の意思を受け継ぎ、改革を更に進めることになるのか、それとも、後戻りするのか、気になる処だ。全ては、5月7日から始まるコンクラーベの結論次第だ。
フランシスコ教皇のご冥福をお祈りして、話を終える。

うえの・かげふみ 1948年東京生まれ。70年東京大学教養学科を卒業し、外務省入省。英ケンブリッジ大学経済学修士。OECD政府代表部公使、スペイン公使、在メルボルン総領事、駐グアテマラ大使などを経て、2006‐10年駐バチカン大使。その後、杏林大学客員教授、立教大学兼任講師などを務めた。著書に『バチカンの聖と俗』、『現代日本文明論』、『ケルトと日本』(共著)他。