天から聞こえてきた音楽

連載・信仰者の肖像(4)
増子耕一

新堀智朝(1922〜1999)

新堀智朝

 

 声明に親しんできた智山派智韻寺の住職、新堀智朝さんが作詞・作曲して作り上げた新しい音楽は「讃祷歌」と呼ばれた。1982年から亡くなるまでの17年の間に作った曲は144曲にのぼり、日本ばかりか世界中で演奏され続けた。
 それらの曲を大別すれば、経典の言葉に旋律をつけたもの、戦没者を慰霊するもの、家族愛をテーマにしたものなど。
 合唱団を率いての演奏活動は、カナダ、ドイツ、フランスをはじめ米国のカーネギーホール、国連本部、バチカン、中国の北京や西安でも開かれ、非常に高い評価を得てきた。声楽曲も器楽曲もあり、オーケストラ用の大作もあった。
 音楽の生まれてきた状況は神秘的で、その行動力は奇跡的といっていいもの。
 戦後、結婚して、ごく普通の家庭の主婦として生きてきたが、1956年に健康を害し、精神的にも落ち込んで、真言密教の門をたたいた。翌年5月から百日修行に入り、夫と3人の子供の世話もあったが、それもこなしながら加持の行を積んだ。修行はその後も継続し、健康を回復。衆生済度を誓って得度した。
 還暦を迎えた82年9月、夫と近所の代々木公園を散歩していると、ふと口をついて歌が出てきたという。母親も姉たちもクラシック音楽に親しんでいたが、智朝尼が習ったのは仕舞で、音楽の専門的な教育を受けてきたわけではなかった。
 音楽は読経の後でも台所でも天から聞こえてきて、信者の集会で披露するとみんなが感激して、歌いたいと望んだ。小学生が使う音楽ノートに書き留めた曲だ。
 最初の曲が生まれてから4か月で15曲をつくり、指揮者の早乙女誠氏らの協力を得て、合唱団を編成し、練習し、その年の12月、三田の仏教伝道協会ホールでコンサートを開催した。
 音楽は聴衆の心をとらえて深い感動を誘い、遷化まで続いた作詞作曲と演奏活動は超人的。それは確かに空海の行動を思わせるものがあった。
 戦時中には苦労し、餓死と隣り合わせの窮乏の生活があり、終戦の年に弟と姉と夫の父親を亡くしていた。そこから生まれてきた祈りの曲は「如意輪観音」で、こんな歌詞がついている。
 「たえがたく 思い絶えなんと佇むを/ここは如意輪の 功徳仏なる/その御手の その面ざしのかげりにも/我はやすらふ 思惟の仏に/美しく さらにうつくし 今生きめ/うつくしきがゆえに 寿命(いのち)とうとし」
 明るく、優しい曲で、悲しみの影さえもない。演奏の度に高い評価を得てきたのは「般若心経」。経文にメロディーをつけた曲だ。力強い朗々としたバスのソロで始まり、回峰行者が峰から駆け下って来るように、主旋律が繰り返される。それをバリトンが追いかけてフーガとなり、テンポが速くなって高い音域のテナーに引き継がれ、大合唱となる。
 「日本の仏教音楽には明るさがなかったんです。だけども密教の世界を教えられて、それが喜びの世界だということを知りました。本尊がそうさせているとしか思えないのです」。
 生前インタビューに応えて語ってくれた。


(2025年4月10日付 822号)