江戸幕府による寺請制度と民間信仰
江戸東京の宗教と文化(3)
宗教研究家 杉山正樹

江戸幕府は、キリスト教と不受不施派(日蓮宗の一派で、法華経を信じない者から供養を受けない、他宗の僧侶に供養しないことを戒律とした宗派)を邪宗門として徹底排除、その方策として「寺請制度」を設けた。民衆に対し何れかの寺院を菩提寺と定め、その檀家となる事を義務付けたのである。彼らの宗教的帰属を明確にするため、「宗門改」(戸籍・宗教調査)を実施して「宗門人別帳」(現在の戸籍)を作成、寺院は檀家に対してこれを証明するための「寺請証文」を発行しその身分を保証した。
戸主が特定の寺「檀那寺」に所属し寺の管理を受けることで、幕府は「檀那寺」を通じて民衆を統制することが可能となった。「檀那寺」は、毎年の「宗門改」で檀家の構成(家族構成、死亡・出生など)を記録、幕府はこれを通じて人口管理も強化した。「寺請証文」がなければ、結婚や就職、旅行すら困難になることがあった。「檀那寺」は、常時の参詣、年忌命日法要の施行、灌仏会や盂蘭盆会などの責務を檀家に明示したので、寺の経営を支える経済的制度としても機能した。これは「檀家制度」と呼ばれる。
「寺請制度」はキリスト教禁制という目的で始まったが、結果的に仏教が民衆の生活と結びつく契機ともなった。寺院は幕府の公的な機関として機能し、庶民の祭祀と密接に関わるようになる。とりわけ葬儀や法事は檀那寺を通じて行われ、「仏教=死後の世界を司る宗教」、所謂「葬式仏教」(圭室諦成『葬式仏教』)という考え方が広まった。
民衆は、特定の檀那寺の檀家を義務付けられたため、信仰の有無に関係なく仏教徒として扱われた。必然的に祖先崇拝への関心・仏式の祖霊信仰が喚起され「檀家制度」は日本社会に定着して行く。檀家は、先祖の追善供養と家の繁栄を願ったので、死後一定の段階を経るとホトケになるという仏教本来にはない教説が育まれた。一般庶民が墓に石塔を立てる習慣ができたのもこの頃である。他方、檀家のいない寺院は現世利益を旨として信徒を集めるようになり、結果的に寺檀関係を持ち檀家の先祖回向を行う「回向寺」と現世利益を旨とする「祈祷寺」の棲み分けが進んで行った。
一方、幕府の統制を受けない宗教として稲荷信仰や庚申信仰、流行神、富士講や伊勢参りなど多彩な民間信仰が興り広まるのもこの時代であった。庶民の間では、祭礼や盆踊りの確立、その他由緒ある寺院や神社などを巡る名所詣で、信仰による遠出の旅など様々な新しい現象が現われた。この現象は、江戸時代に見られる文化の庶民化、大衆化の傾向と無縁ではないと考えられる。飛鳥時代の文化を担ったのは、王族・豪族・渡来人を中心とした勢力であった。中世では、ここに貴族皇族・仏僧武士が加わるが、近世になると庶民階層が、文化の創造者あるいは享受者として登場するようになる。

江戸幕府は、寺社奉行を設置し宗教組織を機構の中に取り込んで中央集権的に統制を図ろうとしたが、冒頭のキリスト教と不受不施派以外については実に寛容であった。また特定の寺社については、朱印地・黒印地という寺社領を与え租税徴収権の特権を保証した。わが国では7世紀以降、神仏混淆という信仰の再構成が興るが、日本人の世界観は元来汎神論的で唯一の神という概念がなかった。
西洋史学の阿部謹也氏は、日本人の行動様式を『世間』というワードで透徹しキリスト教が広まらない理由を説明したが、既に文化として受容されている祖霊信仰を否定するキリスト教価値観との齟齬、日本社会の信仰に対する実利的なアドバンテージ、キリスト教のアグレッシブな布教スタイルへの違和感、なども掲げることができると考える。「寺請制度」は明治に廃止されるが、日本社会の宗教構造を大きく左右したことは言を待たない。明治4年(1871)の戸籍法の制定によって、個人の身分管理は国家が直接行うようになり、寺院の役割は大きく縮小されることとなる。
「成田詣」とも称される成田参詣は、江戸時代中期に起こった成田山新勝寺への個人参詣である。江戸で人気を博した歌舞伎役者の初代市川團十郎が、求子祈願の成就で成田不動に帰依、「成田屋」の屋号を名乗って芝居を打ったこと、江戸から近接な距離であったことから庶民の信仰を集めた。戦国戦乱の世に荒廃して寂れていた新勝寺は、国内随一の参詣者を数える大寺院に発展する。大正期には、京成電気軌道が押上成田間を全通させ『初詣』の広告を掲載、年末年始便を増発させることで今日の「社寺参詣」ブームを作ったことはよく知られるところである。
(2025年4月10日付 822号)